みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『
なぎさの作り方』で読むことができます。
前回は私の家族についてお話ししました。
幼稚園は志木市にある幼稚園ってところに通っていました。恐らくその頃には朝霞から引っ越していたようです。HPを発見したので今でもこの幼稚園はあります。嬉しいですね。勿論ここで経験したことで覚えているものは本当に少ないのですが、数えたら3つありました。園歌、カルピス、石井先生です。
園歌は今でも覚えていますし歌えます。たくさん歌ったんですかね?うちの幼稚園、マーチングバンドみたいのをみんなでやるんです。できる子はちょっと難しい楽器とか使っていて、あとは大勢の幼児が人文字で風車を描いてくるくる回っているように動いたり、そこからまた整列して演奏したりそんな幼稚園ごとに参加する大会がありました。その練習を終えるとみんなでカルピスを飲むんです。その飲む時のことだけ少し覚えています。言われた通りに私は全く動けず常に怒られていたような記憶がありますね。とにかく私はいつも怒られていたんです。何をしても怒られましたね。その中で石井先生ってゴリラみたいな保育士さんがいたんです。浅黒いめちゃくちゃ怖いおばさんで、何度も怒られたはずなんですが風車の形とか何か描くときにやっぱり私はどっか行っちゃうんですよ。全然団体行動ができなかったです。あのマーチングバンドの大会、私って出してもらえたのかな?あれじゃ私の動きは風車の周りをブンブン飛ぶハエみたいでしたもん。石井先生も多分私のことを心配して悩んだりしたと思います。さぞ迷惑をかけたでしょうね。
小学校に進学した後も変わらず注意力散漫でやっぱり怒られていました。本当に何も知らないしできないんですよ。授業も何やってるのか全然分からなくて、勝手に教室から出てっちゃったりして。あの当時は教師って絶対的な所があって、先生に言われたら親は有無を言わさず従うような関係性だったんだと思います。やっぱり親に連絡行きますよね、娘さん駄目な子ですねって言われるわけですよ。だから学校で怒られて家でまた怒られるんです。
今となっては、って言えるんですけどこれって病気なんですよね。ADHDっていうの。でも昔はそんな病名自体誰もしらないからダメな子で話が終わっちゃう。症状とか調べたら恐らく私はそれだと思います。授業に集中できなくて、放課後に友達と何をして遊ぼうかばっかり考えていて、そのまま授業中に隣のクラスの友達に『放課後何して遊ぼうか?』って聞きに行っちゃう。先生に『ダメですよ』と注意されても意味が全く分からない。どうしてダメなのか理由が分からない。ADHDは子供の5%、成人の2.5%が症状としてあるそうです。そう思うと結構そういう子たちいたのかも知れません。幸も不幸も病気に認定されていなかった時代だから私は普通のクラスで、できない生徒さん枠で片付けられていた。またADHDの治療は療育や薬物療法があるって知ってさらに驚いた。子供のうちから薬投与か。しかも風邪薬ってわけでもなく精神的な薬でしょ、怖い。結果で言うと私は自力でその状態から抜け出すことができました。これもきっかけがあったと思いますが、その点で私はラッキーです。
子供の頃の私は理解する力も少ないし、時間もかかった。みんなができることが私一人だけできない。できる人たちを見てなんでできるのだろうと思ったことはあったような記憶があります。そこで怒られるのも含めて全部理解できませんでした。でも大丈夫。今、どうにかやってる私がいます。それにしても子供時の成長って不思議ですね。
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