みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『
なぎさの作り方』で読むことができます。
前回は『2:ADHDだった幼少期』についてお話ししました。
子供の頃はとにかく夜が弱く、早寝早起きでした。朝の4時くらいから起きて、20時をすぎるともう寝てしまうことも多かったです。それが毎日。特に日曜の朝は誰も家族が私に付き合ってくれないので一人で遊んでいました。
昔の朝のテレビ、何にもやっていないんですよね。子供だから観るものが全くないです。日曜は特にそう。早朝のテレビは何もやっていない時間につけるとスノーノイズ(砂嵐)があって、その後の画面ではテストパターンがありました。で、ようやくニュースっぽいものか、ん?違ったな。うまく説明できないんですが、ふわーっとした番組がやってるんです。どっかの田舎にある春夏秋冬の景色とか、職人さんの仕事風景みたいの。まぁつまらなそうなものがやっていて、で、ラジオ体操の後にニュースだったかな?そんな感じでとにかく観るものが全くない。でもNHKくらいしかやってないからそれをつけていました。
それでもなかなか家族は起きてこない。で、家のすぐそばにある公園に一人で行ったり近所の水田で遊んでいました。そして必ず観るテレビ番組がありました。
『兼高かおる 世界の旅』って言うもので、本当に大好きでした。どうやら幼稚園児の時から観ていたようです。兼高さんが世界中を巡って、その映像と共にナレーションをするんです。凄く穏やかな声で知らない国をジャンジャン攻めたあの企画は衝撃的でした。本格的に塩野七生さんがイタリアに移住したのが1970年ですからほぼそんな時代のこと、海外旅行なんて一握りの人に与えられた特権みたいな時の話です。1960年、既に30歳代前半だった兼高さんがこの番組を手がける頃には90か国を周っていたと言う事実。本当にすごいです。
初めて見た日本じゃない世界がとても眩しかった。ほのかな憧れがあったんだと思います。当時の自分の世界はとても狭かった。勿論日本も行ったことのない場所ばかりなのに、それより先に私は世界を観てしまったんですね。で、兼高さんが上品に説明をして、私はそんな言葉もよく理解していなかったんじゃないでしょうか。画像を見るだけでも感動もので、今でこそ海外ロケ番組は当たり前ですが当時は斬新で新鮮でした。
で、ぼんやりとその頃には海外を見据えていましたね。私にとっての日本は住んでいた町内くらいにしか考えていなかった。私は本当に無知な子供でした。毎日何かで怒られる、そんな脱却も夢見たのかも知れません。
兼高さんの存在はそのあたりから私にすっかり擦り込まれていて、いつの時代でも偉大な方でした。当時珍しかった男性と一緒に仕事の第一線で働くとか、海外に行くとか全てが前衛的な兼高さん。しかし本当の兼高さんは至極和風で基礎にある日本を分かってらっしゃったから外国の素晴らしさも届けられたんだと思います。
子供は叶う叶わない関係なく、短絡的に『夢を持つ』ことができます。私もそんな子供でした。彼女の存在は随分長い間私の心の中にあったのは事実です。当時の放送時間を調べたら9時から9時半。今考えるとちょっとうちの家族は朝起きるのが遅かったことがわかります。
日曜日の楽しみはいつもそれで、見たこともない黒い肌の人や青い目の人を見て一人で興奮していました。外国人なんてまず会えませんでしたから。
大人になってからも兼高さんの動向は随時チェックしたりして、お亡くなりになった2019年の年始はちょっとシュンとしましたね。今ここでイタリアに住んでいるのは少なくともそんな幼少時代からのテレビ番組の経験が非常に大きいです。
私の憧れの人は兼高かおるさんです。私を最終的にイタリアに連れて行ってくれた影の張本人です。彼女の存在はいつも私の根底にありました。
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