みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『
なぎさの作り方』で読むことができます。
前回は『3:ずっと憧れの人』についてお話ししました。
小学校3年生では長尾先生が担任でした。若いイケメン先生で私が変わるきっかけでもあり、凄くお世話になりました。
事件の後、私は全く授業についていけない事について、どうにかしないといけないって自分でようやく気づきました。非常に重要な年期です。ここで私が自主的に始めたのは、4冊のノートを使い毎日先生に提出する事でした。国語、算数、理科、社会を復習する。復習するテーマは特に与えられず自分で決めていたようです。やる方も大変だったろうけど、それを先生はご自分の仕事にプラスして私の個人的な勉強まで見てくださっていました。家に帰るとそれをやって次の朝先生に添削してもらう。これにより以前に比べ数段学力がつきました。その頃には私は勉強を面白いと思っていたんでしょう。
そもそも左利きだった私はその時代らしく両親に右利きへの矯正をさせられます。両親の教育方針で箸と鉛筆の持ち方は随分厳しく教えられていました。右利きへの矯正はかなり時間がかかりました。そして親のいないところでできるだけ怠けていたため、現在では左利きの方しか使えないものと、両利きで使えるものの分類に分かれます。ほとんどは両利きですが、包丁、ハサミ、スポーツなどは左利きしか使えません。左利きでADHDの子供が持つ苦しさなのかは分かりませんが、左右を覚えるのがとても時間がかかりました。ある程度成長しても右と左を時々間違えることがありました。
特に『箸(鉛筆)を持つほうが右』と学校で教わるとかなり混乱しました。私はどちらもできるので。体育で『右向け右』も賭けで向きを変えていたので、よく一人で反対に向いていましたね。あまりに自分で覚えられなくて、定規の上にペンで右と左を書いてみながら覚えるようにしました。あまり役には立ちませんでしたけど…
私は長尾先生が本当に大好きで、翌年も先生が担任でした。先生は他の生徒にも人気がありました。その頃先生が推奨していた方法が今でも生活に染み込んでいます。長尾先生は生徒たちに家の中を裸足で歩くように言っていました。それからだと思います。家の中では寒くなければ靴下は脱いで裸足。これは今でもそうですね。はっきり言ってあの頃の学校の先生は厳しかった。でもどんな先生も私のことを本当に考えてくださっていたんだと思います。唯一中学2年生の時の担任の先生とはうまく行かなかったです。19歳でその先生に再会した時は平静を保っていた私ですが、心の中で思うところははっきりありました。今はなんとも思っていませんが。
そんなにお世話になった長尾先生を以前ほどではないと思いますが叱られましたね。授業を無視してクラスメートと無駄話が多かった私にはほとんどの小学生時代を教卓前の最前列の席が与えられました。あまりに態度が悪い時は教卓の横に私の机がありました。そしてよく廊下に立たされました。カツオを見ると思い出します。
その3年生か4年生の頃、彫刻刀の授業がありました。私は与えられた木の板で彫刻刀を使うのが勿体無いと思い、ふと目を落とした自分の机が木材でできているのをみて、これは練習になると大いに彫ってしまったのです。しかも机の真ん中からかなりの範囲を彫ったので机は使い物にならなくなりました。長尾先生は私を凄く怒って、床に落ちた木屑をボンドで机に貼って以前のように戻すよう命じました。私は居残りをして放課後一人で机に木屑を貼る作業をしたことを覚えています。その後あの机は捨てられたんでしょう。悪いことをしました。
切るといえば、これは何年生の時代の話かはっきり分かりませんが、カッターを使う授業がありました。私はどう使ったのだか右耳を切ってしまい肩のあたりに流れた血がかなり服に染まってようやく先生が気付くということもありました。その傷跡は今でも残っています。
明らかに私が成長したのは長尾先生が担任だった小学校中学年の時で間違いありません。長尾先生が私を救ってくれた。生徒と先生の相性で子供の将来って大きく変わるんだと思います。やはり学校の先生ってとても大変なお仕事ですね。そのような教師と接した成長段階の経験があり、のちに私は教職免許を取るきっかけにもなっています。
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