みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『5:将来の夢』についてお話ししました。
小学校5、6年生の時が私の学生生活で一番平和で楽しいと思える時期でした。しかし、別にその後の学生時代が悪いものだった訳ではありません。中学に入るといよいよ社会が作ったレールになんとか乗せていこうと言う図々しい大人の思惑があったからです。自由な発想をするより、とにかく道を踏み外さないように子供たちをガッチリ固めていくことに社会は躍起になっていました。そこで言う『道』は大人のエゴで、子供が言わんとしていることをかなり無視していました。もし大人の言葉に少しでも納得のいく説明があればどんなに理解できたことか。何か悪いことをした時に、大人が叱る。その理由までちゃんと話して叱るべきです。私はいつも大人からその理由を心で求めていたんじゃないかな。
勿論、私にも過ちがありました。自分自身でその理由を考えなかったのが私の間違いでした。
反省できなかったですね。それが高校時代になると爆発してしたんです。
当時流行っていた学校内暴力とか、積木くずしの世界を目の当たりにするのは中学に入ってからですので、その前の一番穏やかな日々が小学校高学年のあの時期でした。
石秀章先生。私の5、6年生時代の担任です。恩師ですね。当時先生は私より何歳か年下のお子さんを持っていらっしゃったですから、もう今ではおじいちゃんだと思います。ものすごく厳しい先生でしたが、私たちは先生にとても懐いていました。どう考えても破天荒で口も悪かったですが、やっぱりいい先生です。先生は休日を返上して私たちによく付き合ってくれました。校庭でバーベキューをしたり、魚釣りにいったり、自宅にもよく呼んでもらいました。小学校の土曜日は午前中で授業が終わりでしたので、通常はお昼ご飯を食べるべくみんな帰宅してしまいます。しかし私たちは石先生と音楽室に残ってそこでよく花札をして遊びました。家からお菓子を持ち寄って、冬にはストーブでスルメイカを炙って食べました。とにかくコミュニケーションを取ってくれた…
厳しいと言えば、先生からはビンタもよく頂きました。一度、学期末の終了式に私たちのクラスだけくっちゃべっていて体育館への集合が遅れた時がありました。式が終わると私たちは一列に並ばされて、先生はかたっぱしから全員頬を叩きました。もう痛くて痛くて。
どうしてこの事を私は親に言おうとしなかったのか。二つの理由がありました。一つは先生の真意が私たちに伝わったからです。暴力を肯定するつもりはありません。でも先生は何かあった時にはしっかりその理由を子供がわかるように説明してくれました。だから誰も親に言わなかったのです。みんな悪い事だとちゃんと認識できました。もう一つはここで親に言うと私はまた親から叱られるんではないかと打算が働いたからです。一つのことで一回怒られれば十分です。割りに合わないと子供らしく判断したんでしょうね。
石先生は卒業式の練習に限り大いに泣いてもいいと言いました。その代わり誰一人として本番では泣いてはいけないと。
卒業式、私はとても泣きました。今思うと、先生はこの指示に対して珍しく理由づけをしていなかったように記憶しています。だから私は泣いたのでしょうか?いや、本当に先生と離れるのが辛かったんだと思います。同級生の殆どは同じ中学校に進学します。昔の時代ですから私立中学に行く友達はわずかでした。進んだ中学校にはまた同じ仲間がいる。でも先生とはあの日々を味わえない喪失感が涙になったのかも。中学に入っても時折先生にみんなで会いに行っていましたが、転校を樹にそれもしなくなりました。
私の小学校時代はこれまで話してきたように1、2年、3、4年5、6年と3段階に分けて成長のあった事がわかります。そこで少しずつ人格形成の基礎ができて今に至ります。私は学校なんて行かなくったっていい考え方ですが、少なくとも小中学校生活は別かなと思います。義務教育とはよく言ったものです。
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