みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『6:学生時代で一番楽しかった2年間』についてお話ししました。
中学校に入学した時、姉は中学三年生でした。この中学校は凄かった。リアル湘南爆走族と積み木くずしでした。
絵に描いたような不良が沢山。小学校から中学校に上がると何故かみんな次第に不良になるんです。特に酷かったのは姉の代でしたので、上級生に兄弟がいる人はつられるようにその道に行く人が多かったですね。姉は形ばかりは不良ではありませんでしたが中身は不良でした。家で親子喧嘩とか見ると非常に迫力がありました。父は豪腕な男です。私にとって父は恐怖の塊みたいな昭和のお父さんだったので、姉はよくやり合うなと感動ものでした。根性と目力は負けなかったな、姉ちゃん。姉の同級生の不良達にはよく声をかけられました。本当に関わってこないで欲しかったです。今となればあの荒れた光景を見る事ができたのは貴重ですね。当時はやっぱり怖かったですよ。
このように学校の教育環境はかなり劣悪でしたが、それでもまだ中学校に入ったばかり、不良になるにはもう少し時間がかかります。姉の代である3年生までがセーラー服で2年生から下がブレザーに制服が変わりました。私はセーラー服、憧れましたね。
不良達が校庭にバイクで乱入し、竹刀を持って授業や全校集会に乱入するのは毎回で、余興じゃないかと思うくらいほぼ起きる。先生方が彼らを押さえつけるのも一苦労でしたが、この学校の悪環境が複数年に渡って日常化していた事がその慣れた対応からわかりました。
私はのほほんとバドミントン部に入ります。サウスポーだったし好きなスポーツだったので。これまた部活も上下関係の厳しい事。あれ、何であんなに上級生って偉そうだったんでしょうね。どんな大人になっているのか気になります。軍隊みたいですよ、いちいちそれらのルールの意味がわからない。水を飲んじゃいけないとか立って待っていないといけないとか理不尽なことばかりです。あと先輩より高級なラケットは持ってはいけないとか、1年生は色のついたガットを張ってはいけませんでした。あれで学べるものなんて何もないし、それを容認する空気がバッチリあって先生とかも何も言わないんですよね。で、顧問の先生はすごいセクハラでした。小学校時代の項で言ってませんでしたが、私一度自宅近所の公園で性被害にあっているんですよ。エグい話だから内容は伏せますが小学校5年生くらいだったと思います。だから顧問とかの言動が気持ち悪かったですね。
楽しい小学校時代からいきなりがんじがらめの中学校。あまりに違うので戸惑いを持っていました。ちょっと何が起こっているのか理解していなかったかもしれません。私も3年生になったらああいう不良になるのかと想像しました。不良になるのはダサいと思いました。
とはいえ、この部活の風習を除けば厳しい練習も実は楽しくて、自主練もよくしました。
多分教育界の時代の過渡期だったのかもしれません。
そんな生活も半年ほど過ぎた頃、両親は新しい家を探し始めていました。私の知る父は会社員です。以前話した自衛隊の時代を私は知りません。姉が全部教えてくれたことです。サラリーマンの父は志木市の家から別の地域に引っ越すことを考えていました。姉が高校に進学のタイミングでの引越しと私の劣悪な不良学校からもう少しまともな所に行かせるためだったのではないかと深読みしています。本当のところは知りません。
私たち家族は時間を見つけてあちらこちらへモデルルームの見学に行きました。楽しかったですね。いろんな形の間取りがあるのを知って吹き抜けとかカウンターキッチンも素敵だなって思いました。家族の意見が全く合わず、話がまとまるのに時間がかかりました。そもそも家は親が買うものなので何も私たちまで連れ回す必要のないことです。しかしいつも両親は私たちに意見を聞いてきました。私は仲のいい友達が男女問わずいましたので転校は寂しいはずでした。不思議なことに新しい世界が待っていると思うと、そっちの好奇心の方が先に立っていました。転校生というワードにも少しウキウキしていたかもしれません。
そして新しい家が間も無く決まりました。私は転校生になります。
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