みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『7:あまりに違い過ぎた小学校と中学校の環境』についてお話ししました。
引越しは切りよく春休みという訳には行きませんでした。それは姉の高校入学の準備なども重なったためだと思います。中学1年生も年明け3学期になるとまもなく引越ししました。よって、私は残りの2ヶ月を新居の所沢市から通うことになります。登下校に関しては、朝は父の運転する車で中学校の近くまで、帰りは電車を使うことになりました。そのために部活は辞めました。転校のことを誰かに言うつもりはありませんでしたが、その噂は終業式までには周囲に伝わっていました。
友達とは同じ県内だし、すぐに会えると思っていました。大きな悲しみや寂しさは別になかったです。
電車で下校するなんてちょっと大人になった気分でした。
中学校からバスに乗り、志木駅へ向かう。電車を一つ乗り換えして自宅の駅に着く。志木駅から私の家の駅まで長い路線バスが通っていたので、時間が合えばそれを使って帰宅するのも好きでした。変わり映えのない日常が期間限定で違うものになるのは面白いことです。新しい中学校への不安など全くなく、それなりに友達もできるだろう。もしかしたらまたバドミントン部に入るかもしれない…
転校前の中学校は1958年に作られたようです。そして1975年に現在の中学校として開校しました。私が入学したのは1986年になるから創立11周年だったと言うことになります。校舎がやたら古かったのでもっと古い学校だと思っていました。
これから新しい学校に通うことになる…これは期待しかなかったですね。私は人見知りもしなかったし、誰とでも気軽に話すことができた子供だったのでその辺の心配はありませんでした。中学2年生の1学期から私は家から歩いて15分程度の中学校へ通うことになります。
転校先は1983年に開講された新しい学校でした。校舎はやたら新品で機材も設備も最新、随分驚くほど前と違います。往々にして新しい学校は、初めからきっちり生徒を指導したいという風潮があるような気がします。そのためには多少厳しい校則が設けられていることも多い。この学校もまさにその典型的なパターンで、何だか厳しかったです。そんな学校でも不良っぽいのはいくらか生まれます。
私は無法地帯の中学校からがんじがらめの中学校に転向したことになります。私たち家族が引っ越してきた地域は畑のおおい長閑な場所で、新しく分譲住宅やマンションが立ちはじめ、これから開発がすすむ過渡期でした。それに伴い商業施設なども盛んに作られてきたまさにその時、おそらく子供の数が増えることを予測して作られた中学校だったのかもしれません。そんな新しい中学校にきた私はギャップをとにかく感じました。
以前もお話しした通り、私はある程度満足した小学校時代を送り、不良ドラマの中学校で育ったのですが、この時さらに新しい学校の窮屈なルールに慣れませんでした。例え私が不良でなくても、少なくとも不良の中学校に行っていたため、底辺で培われた何かがあったのかもしれません。まもなく私は新しい学校の不良達に目をつけられます。これまた私が知っていた以前の不良とは全く違う、生温いヤンキーに毛が生えたような人たちで、別になんとも思いませんでした。あれが不良だったのか未だにわかりませんが、私が悪いことをしていると教師に告げ口をヤンキーがするんです。で、私が職員室に呼ばれると言ったことはしょっちゅうありました。不良が先生を利用して私をハメる不思議なやり方でしたね。私がイジメをしていると吹聴され担任の先生に放課後残されたこともあります。可笑しいことです、イジメられているのは私なのに。
それでも普通に友達はできました。それなりに気の合う仲間にも恵まれました。でも私だけイジメにあうんです。それらのいじめは馬鹿馬鹿しいほど低能で、それを喜んでいるいじめっ子達を見てちょっと気の毒になりました。こんなことでしか喜びを持てないなんて。そのうち学校に行かなくてもいいのではないかと思うようになりました。勉強は自宅ですればいいし、友達はできたから放課後にでも会えばいい。理由もなくちょっかいを出されるのに本当に嫌になりました。いじめはいじめられる方に問題があると言います。私なりに考えると愛想がなかったんだと思います。転入生として彼らに合わせようとか媚びたりもしなかったので。協調性がなかったのは否めません。
ある日、私は母に学校へ行かなくてもいいか相談することにしました。
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