みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『9:いじめが終わった時に思う』についてお話ししました。
『お子さんが他に入れる学校はありませんよ』
三者面談で担任からそう言われ、がっかりした様子の母と一緒に帰宅したのを覚えています。
学歴社会…いい学校を卒業すれば安定した将来を約束されると思われていた時代の展開ですね。勉強だって運動だってできるに越したことはないのでしょう。出来の悪い子供はそれなりの未来しかないと脅されているようなもんです。私は高校なんてどうでもよかった。海外に行ったらそんなものが一体何の役に立つんだろう?
しかし、母が悲しむ顔はやはり見たくなかったですね。父は家事も子育ても全て母任せでした。当時、私が苦手な父方の祖母が近所に転院してきたから為、母はパートで働きながらその意地悪婆さんの面倒を看る三重苦に陥っていました。毎日最低2回、義母を見舞う為に病院を訪れ、さらに私のことで負荷がかかったので、せめて学生時代くらいは母の望む生き方をしても将来においてはそんなに回り道ではないかと思いました。
それでも高校受験なんて大嫌いでした。毎回偏差値偏差値って人の価値を数字にいているみたいだ。
そりゃ先生からしたら自分の中学校から評価の高い高校に進学してもらいたいのでしょう。中学校の評判もそれで上がりますし。でもいい学校に行った人が必ずしも素晴らしいとは限らない。私はどっちかと言うとできない子だったけど全くできなかったわけでもない。このどこにでもいるレベルの生徒が一番中途半端に扱われていることも何となくわかっていました。逆に頭のいい子と悪い子たちへそれなりに先生は必死に考えていたんじゃないか。そんなもんです。だからこそ私は自分のことをちゃんと判って動かないといけませんでした。目指すものはまだ時間も場所も遠かったので、その通過点の高校は人並みのどこかで十分です。
さて、ヤンキー高校を受験られそうになっていた私。どうにかその回避するのに一つの私立高校を担任は私に勧めてきました。母は乗り気でそこにしようと言いました。あのヤンキー高校に比べたらマシそうでした。高校のパンフレットを見て、通う部活だけ決めて、その高校を受験することに決めました。だから学校の内容は頭に入っていなかったです。
一般推薦で受験するのだとか。当時は一般推薦で各中学校に与えられた枠があり、先生の裁量で生徒たちにうまく配分していくんです。それぞれ人気の高校から先生が生徒を受験すべき高校として選考し、残りの私みたいのは余りの高校に振り分けられたんだと思います。その一般推薦の一校だけ受ければ受験は終了です。この時の試験はそれなりの形で筆記試験がありますが、大体が出来レースだと思っていましたし、多分そんなもんだったでしょう。よっぽど変な数字を叩き出さなければ合格します。理由は簡単です。高校にとって私の両親はまとまったお金を落とすお客さんみたいなもんですからね。
当時は何校も受験するクラスメートが多く、第一志望とか滑り止めとか色々受験日程なども考えてスケジュールを組んでいました。みんな真剣だなと横目にみるばかりです。どうせいくつも受かったって自分が入学できるのは一校だけです。それなら面倒な受験だって私には一回で十分です。そんな理由もあってその私立高校を受験することになりました。
受験を控えた3年3学期の1月に昭和天皇が崩御されました。不思議な空気の中、私はその高校に合格しました。私たちの中学からはそこに3人が行くことになりました。両親は喜んでくれました。あと3年も勉強するのかと思うと気が重かったですが、恐らくそんなに勉強はしないだろう。書いた通り、入りたい部活は既に受験前には決めたしそれを楽しんで過ごそうとは思っていました。間も無く2年間過ごした、それほど思い入れのなかった中学校を卒業しました。高校ではどのくらいの気分転換ができるかな。行くからには楽しもうって気持ちでした。
平成元年春、高校生になります。そして私はこの年にこれまた周りに迷惑をかけます。
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