みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『17:働く以前から好きだったもの』についてお話ししました。
勝手に自分が過度な期待をするから、予想を裏切られたときの落胆も比例すると思うのです。
だから最初から期待しなければ気落ちすることもありません。
…短大1年、18歳の夏。
学校も慣れたくらいで念願のカナダ留学の準備は着々と進んでいました。この学校に行く理由ともなった私のメインイベントが始まります。留学では協力関係にある大学がブリティッシュ・コロンビア州にあった理由でカナダに行ったのです。行き先がもしアメリカだったらそれでも良かったし、オーストラリアでも構わなかった。とにかく一度海外に顔を出さないと、と思っていたので場所への深いこだわりは特に無かったです。
前回も話した通り、私は海外に対するイメージが大体できていましたし、結果向こうに行ってみて思った通りでした。
大学が用意したカリキュラムはしょうもないものでした。上部だけはちゃんとお勉強をしますよって謳っているんです。だってこの留学で単位がもらえるんですよ、それなのに『これ、勉強か?』って思うようなレベルでしたね。殆ど中身のないものでした。ああしないと客(学生)が集まらないんでしょう。学校経営も大変ですね。
この短期間で学べることは限られています。だから自分で目標を立ててみました。高望みはしないでただ一つ、現地の人たちに慣れること、これができれば十分です。コミュニケーションが取れて現地の文化を理解しよう。語学なんて適当にどうにかなるでしょう。どこに至って人付き合いは必ずあるものです。私にとっては語学力よりよっぽど大切な事だと思っていました。
英文学科には同学年が約250人くらいいて、そのうち2割程度が短期留学に参加した覚えがあります。私たち学生はみんな未成年だったので、現地の家族と過ごすようにホームステイと決められていました。そして私たちが滞在した場所はひどく小さくて貧しい村でした。
ここからは生々しいのですが、ホームステイ先として受け入れの審査に合格した家庭は補助金と称したかなりの額を収入として得られるシステムでした。当然そのお金は参加者から払われるものです。カナダの先方にとってはお金が簡単にもらえるチャンスで、日本の保護者側からすれば学校を通した身元の確かな家庭に自分たちの子供を受け入れてもらえる安心感を得ることができます。はっきり言って金額といい全てが何となく胡散臭いカリキュラムです。しかし私はどんな形でも一度海外に出たかったのでその辺の事情はどうでも良かったです。個人的に留学しようものなら頭の硬いうちの両親は首を縦に振らなかったでしょう。
いよいよ出発が近づいてきた時に、我が家でちょっとした問題が発生しました。
父方の祖母が亡くなってしまったんです。このシリーズでも初回から話させてもらっていますが、悪名高き祖母が長い闘病の末、自宅近所の病院で息を引き取ったのです。我が家家族は随分この祖母に引っ掻き回されていました。そして一番の被害者は間違いなく母でした。しかも私がカナダに発つ約1週間ほど前の出来事です。母も私も『このタイミングで〜!?』と思いました。ある意味祖母らしい旅立ちです。そこで何と、父方の親戚一同に極めて無言を通していた母がここで一言、
『なぎさをカナダに行かせてあげてください』
この流れ、理解できない人もいると思います。誰に言うか、このセリフって…面倒ですが、田舎者同士の親戚付き合いなんてこんな許可を貰わないと認めてもらえないのです。母曰く、祖母はもう亡くなってしまっているのだから何も変わらない。ただなぎさが葬式に出られないくらいのことです。それなら娘が望んだカナダ行きは予定通り行かせてあげたい、ってなことを言っていました。菩提寺からお盆で忙しいと言われ、真夏の祖母の葬儀に対応できないと、一度冷蔵庫で保存して繁忙期が終わってからゆっくり葬儀をあげる算段になりました。坊主も商売だ、お盆の書き入れ時はしっかり稼いで落ち着いてから祖母のお葬式とはうまく考えたもんです。よって私は葬式には間に合わないから母が声をあげたのです。私はその辺の事情がよくわかっていませんでしたが、想像するに母は親戚筋から嫌味のいくつかは言われたかもしれませんね。
母の抵抗が功を奏し、おかげさまで私は祖母の葬式に立ち会うことなく成田からバンクーバーに向けて飛びました。
一つ付け加えるとすればここまでの流れを見て、海外留学に随分理解のある親のように感じませんか?残念ながらそれは大きな勘違いです。
両親は私の最終的な目的に既に感づいていたんだと思います。よって、今回のような遊学をかまして私が海外に移住するだろう作戦を阻止しようとしていたんです。姉も高校一年でアメリカに留学しています。姉が海外に住みたかったなどとは聞いたことがありません。姉には海外の水が合わなかったらしく、喜んで日本に帰ってきましたから、あまり楽しくなかったのでしょう。私には結果皆さんご存知の通りです。
バンクーバーからさらにぶっ壊れそうな小型機で移動して到着した場所、それはフォート・セント・ジョンです。同じ州内なのに全く違う…
田舎だけならいいんですが、微妙に治安が悪い。仕事がなくて働かないエスキモー(イヌイットの方が正しいかも):が酔っ払ってウヨウヨしているような町でした。あの頃のカナダ、景気悪かったんじゃないかな。
緯度は北緯45度ほどで、真夏は夜中の12時近くまで白夜の状態が続く不思議な土地です。出だしから怪しい場所ですが、来ちゃったんだから仕方ない。
ここで一体何を経験したかは次回。
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