ポンペイ・スカーヴィ駅到着しました。
早速チケット売り場へ向かいます。事前に調べてみるとチケットはネットで購入しておいた方がいいと読みました。しかし天気がどうなるかわからなかったので、もしひどい雨だったりしたらナポリで過ごそうと考えていました。幸いなことに雨はナポリ到着時に止み、その後はどうにかなりそうな予報だったのでここまで来たのです。チケット売り場は長いと1時間待つなど言われますのでその覚悟はありました。
マリーナ門にあるチケット売り場。
横で猫が迎えてくれました♪
画面左側には手荷物預かり所があります。スーツケースや大きな荷物は預かってくれます。こんな状態で特に並ぶことはありませんでした。たまたまなのか、いつもそうなのかはわからん。チケットは一日券18ユーロ。
並びのインフォメーションセンターにてここの地図が貰えます。どうせならチケット購入時に貰えれば手間が省けるのにな…
さ、マリーナ門(この門は城壁から海に続いていたことから名付けられた)を潜りましょう。
ポンペイには7つの門がありますが、その一つがこれ。これら門のうち5つは重要な外部道路と繋がっていました。市内では埋葬と火葬が禁止されていたため、城壁のすぐ外側には主に墓地として利用される広大な土地が広がっていました。余談ですが、大きな墓の中には埋葬された人々の遺言で定められた年に一度の宴会のための食堂や台所も備えていたものもあったそうです。
マリーナ門の二つの通路、画面向かって左側は歩行者用、右側は馬や群れの動物が歩く用と分かれていました。
ポンペイの面積は約64ヘクタール、人口は約2万人でした。
当時ポンペイはイタリアにおける体系的な都市計画の最初の例です。西暦62年の地震の影響で、ネロの時代に建築関係者たちは公共事業など街づくりをするものの、79年のヴェスヴィオ火山の噴火で工事は完全にストップしました。多くの人は逃げ延びたものの、2,000人ほどは巻き込まれたと言われています。
通りを歩くとその幅は2.4mから広くても7.0mほどしかありませんでした。大通りの両側には歩道がありましたが、その間に排水があるため、歩行者が道路の一方の側からもう一方の側に通行できるようにその間に大きな石が置かれていました。
このように高度な技術を紀元前から持っていたポンペイ。ヴェスヴィオ火山の噴火によって破壊される前、ポンペイには大きな宮殿、寺院、色とりどりの家、市場、あらゆる種類の店があり、そこで人々は気ままな生活を送っていました。生産されたものはローマ帝国の最も遠い地域にさえ簡単に輸出できたため、その位置は素晴らしかったのです。
周囲の土地は非常に肥沃であったため、その製品は何よりワインと油でした。実際、土壌には都市ヴェスヴィオ山からきた溶岩物質が豊富に含まれていました。噴火前の時代、ヴェスヴィオ火山は草に覆われており、内部に火山があることは知らされていませんでした。実際、ポンペイは800年前に建設されていましたが、ヴェスヴィオや亜mには生命の兆候が全くありませんでした。79年にヴェスヴィオ火山の噴火があった時、住民全員が驚いたのはそのためです。
美しくカラフルな都市は、突然火の玉に見舞われ、家、通り、人々の全てを覆いました。それらは全て白熱の灰に覆われた時の位置から動けなくなっていたため、何世紀も後に発見されました。眠る者、隠れる者、逃げる者。
まるで石膏像のようで、その状態により2000年以上生き残ることができました。実際、今日でもポンペイの発掘現場に行くと当時の人々の鋳造物が数多く見つかります。それはただの溶岩であり、遺体は消えています。最も驚くべきことは、市内の建物の大部分も保存されていることです。
ポンペイ市の最初の住民はローマ人による征服前にカンパニア州、アブルッツォ州、ウンブリア州の一部の地域に住んでいたのと同じ民族(Osci)でした。オシたちはナポリ湾に5つの都市を設立し、歴史家によればポンペイとはオスカ語で5を意味します。
ポンペイは、多くの船が行き交う自然の港に面しているため、すぐに重要な商業都市として台頭しました。ギリシャ人、次にエトルリア人、サムニウム人、他のイタリア語族が紀元前2世紀にローマ人が到着するまで長年にわたってこの地を征服しました。
ギリシャ、エトルリア、サムニウムの建築にローマ人が都市を建設するために使用した規範が加わりました。ポンペイ最大の宮殿のいくつかはこの時代に作られました。
・フォロ
・法廷があった大聖堂
・ジュピターの神殿
・市内最大の民家の一つ、La casa del Fauno
ローマの貴族にとって、ポンペイは別荘で、休暇を過ごす場所でした。
ポンペイは非常に広く、片っ端から見ていくことは大変です。メインを決めて効率的に回るといいでしょう。歩いているだけで疲労と思考停止になりますので、休憩を挟みつつ観光してみてくださいね。西暦79年の町に触れつつもその当時の技術に感動し、驚きます。