ポンペイでーす。周囲は3kmあります。
広い敷地というか町の中をぐるぐる歩く人たちの中に私たちもいました。右に左に人が移動しているのを見ると本当にこの町は生きているかのように感じます。ただ全ては遺跡、遺跡都市なんですよね。
『雲が立ち上っていましたが、遠くから見ていたのでどの山からのものなのかははっきりとは分かりませんでした。後になって初めて、その山がヴェスヴィオ山であることがわかりました。その形には他のどの木よりも松の木に似ていました。雲は巨大な幹を空高く舞い上がり、広がり、枝を出しそうになり、その重みを乗り越え、雲は大きな傘のように伸び、時には真っ白に輝き、時には汚れてまだらに見えたそれによって引き起こされました』
小プリニウスがタキトゥスに宛てた手紙にはそのように綴られていました。
この古代都市を明らかにするための考古学的発掘はスペイン国王カール3世のもとで1748年に正式に始まり、現在も続いています。
噴火当時、この都市は他のローマの中心部と同様に、デクマヌスとカルドから始まる構造化した計画に基づいて建設され、互いに交差する二つの大通りが4つの直角を形成していました。都市の中心であるメインフォーラムの周囲にはオフィス、裁判所、寺院、浴場、市場、倉庫、劇場、体育館、商店など、市民の主な活動が行われる建物がありました。
石畳の両側には歩道があり、真ん中の通りにできた轍。
この轍は2000年前の荷馬車の轍です。長い年月使われて、これら大きな石にさえ足跡を遺しているのを見るだけでも深い感動に包まれます。
こちらの紐に繋がれた犬はちょいと有名なモザイクです。敷地内のブックショップにもこのデザインがお土産として売られていました。
ここの建物は悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)と呼ばれています。家の中に公演の準備をする役者たちのシーンがあって、家の由来となっています。
犬に注意(CANE CANEM)と刻まれたモザイク。2000年以上も前にポンペイの住民は既に訪問者に家の中に犬がいることを警告する習慣がありました。実際通行人への注意喚起として機能しました。強化ガラスに阻まれて見にくいかもしれませんが、人気であるだけでなく重要なモザイクということがわかりますね。
パキウス・プロクルスの家(Casa di Pachius Procolo)にも別に犬に注意がありました。この家は紀元前2世紀に遡る非常に古い家だそうです。非常に裕福な夫婦のものだということは分かりますね。
このように至る所にあるモザイクは昔のままの形を残しています。沢山あるので見つけてみましょう。
モザイクは小さなタイルを並べて使用する古代の技法です。伝統的にガラス、大理石、石が使用されていて、非常に耐久性のある技術です。そしてこれらは熟練した職人のチームによって作られました。
こちらの落書き。これは選挙にまつわるものです。毎年春になると、住民は4人の治安判事、行政権をもつ2人、公共サービスの管理を任された2人を選出しました。これらに立候補した候補者は、有権者に自分に投票させるために多額の資金を費やしてプロパガンダをします。そんな落書きがこちらです。
落書きは選挙ポスターだけでなく、詩や悪口など、まぁやりたい放題。現在ではなかなか褒められる行為ではありませんでしたが、当時はこんな感じでした。
古代ポンペイの壁にはさまざまな種類の文字が見つかり、それらを作成するにはフレスコ画と落書きの2種類がありました。これらの文章は少なくとも3人のチームによって書かれたそうです。1人は秤を持ち、1人はライトを持ち、1人は絵や文章を書きました。ものによっては自分がやったことを示す碑文まで付け加えられているそうですよ。
西暦79年のその日、パン屋が数個のパンをオーブンに入れました。料理をしている間にヴェスヴィオ山が噴火し、火山は豪華な建物や売春宿、イシス神殿や奴隷の部屋などポンペイの隅々まで行き渡ります。発掘中に古代のパンが見つかります。焦げてはいますが、元の形を留めています。
生活の多くの部分がはっきりと残っている町のあちらこちら。さぞかし根気のいる発掘作業だったのだとつくづく思いました。