ポンペイの円形劇場です。3段の座席に分散されており、深さ6m、幅104m、長さ135m、最大20,000人の観客を収容できるんですって。この地域(町の外れ、南東部に位置します)にはほとんど人が住んでいませんでしたので、多数の観客の往来が都市の日常生活に支障をきたさなかったのと、既存の堤防を活用し、もう片方に人工の堤防を建設することで費用を抑えてくつられました。
円形劇場には4つの入り口があり、うち2つはアリーナに直接つながっています。おそらく治安判事と最も重要な役職には石積みの区画によって他の露店から区切られた特権的な通路がありました。アリーナはフレスコ画(現存していない)の欄干に囲まれていました。冬の間と最も暑い時期にはイベントは行われず、夏の間観覧席の上部に棒が打ち込まれた石の輪によって太陽から守るため暗いリネンのヴェールが張られていたのです。剣闘士の試合で使用される獣は闘技場の中央にある小さな開口部から侵入しました。イベントは家の正面に落書きされて宣伝されることもあったんですって。いつも思いますが、闘いの娯楽って現在まで変わらない文化だな…
ここは紀元前70年頃に建てられ、コロッセオ(西暦72年に建てられた)よりも遥かに140年近くも古いんですよー。
よし、中に入ってみます。2箇所から円形劇場のど真ん中を通り抜けできます。
剣闘士のショーには全市民が参加しました。剣闘士にとっては自分自身の解放のため、人々にとっては気を紛らわせるためでした。これらのショーにはそれぞれのファンがいて、グループ同士が衝突することも少なくありませんでした。剣闘士は男性同士、もしくは男性と獣の戦いです。
円形劇場に隣接して大きな運動場があり、若者たちが運動をしていました。紀元前1世紀に建てられました。
長方形の平面図、141m X107mの大きさがあり、10のアクセスドアのある高い壁で囲まれており、三方に柱廊玄関があり、スイミングスクール(35m X 22m)がありました。プールは斜面に造られ深さは1〜2.6mありました。その後西の路地の入り口に置かれた城のために埋められました。
大運動場の内部は柱廊玄関で囲まれており、三方に35本と一方には48本の柱あります。現在までに幾つかの柱の隙間に溶けた鉛の痕跡が見られます。これはその多くが西暦62年の地震によって深刻な被害を受け、埋めて漆喰を塗る時間がなかったためです。
小劇場(オデオン)は、円形劇場を建設したのと同じ2名によって植民地設立後(紀元前80年)に建てられました。1,300人の小規模です。4つの傾斜がある屋根を支えるために、建物は正方形に内接する半円形の平面図を持っていました。合計17段の凝灰石の階段がありました。
この日はここでイベントがあるようで白い仮設テントの中で衣装合わせをしていました。
大劇場(スコペルト)は約5,000人の観客を収容できます。紀元前2世紀のサムニウム時代に既に建てられ、何度も改修が加えられました。
ヴェスヴィオ火山の噴火は2日以内にポンペイの都市を破壊し、溶岩に襲われ、住民と都市の生命は終わりを迎えました。この噴火は火山近くに住んでいた人たち全員を驚かせました。火山は数世紀にわたって休眠状態にあり、木々や草に覆われています。
噴火の数日前には一種の渓谷と理解できるサインがありました。井戸や噴水の水がなくなり、ヴェスヴィオ火山内部のマグマの上昇運動に関連して幾つかの地震が発生しました。彼らはそれらを非常に激しい噴火の始まりとして解釈することができました。火山から噴き上げられた柱は15kmの高さに達し、数キロメートル離れた場所からも見えるほどでした。火山の周囲全体は軽石、瓦礫、灰の絶え間ない雨に見舞われ、大規模な火災が発生しました。火山の活動は同時に幾つかの自信を伴いました。夜、ヘラクラネウム(ポンペイ近隣の町)は溶岩の波に見舞われ破壊されました。この第一波はポンペイを襲いませんでした。実際状況は沈静化したかに見え、まさにその夜の間に日中に家から逃げていた多くの住民が自宅に戻りました。
しかし、翌朝ポンペイも溶岩流に見舞われ、壊滅的な影響を及ぼしました。都市は溶岩で襲われ数メートルの灰の下に埋もれたままでした。ポンペイの住民は死亡し、その多くは自宅のベッドで眠っている状態だったそうです。
火山から放出される有毒ガスの噴霧によって、何人かの死者が発生し、燃え盛る灰が遺体を覆ったため、考古学者は石膏模型を作成することで、人生の最後の瞬間に捉えられた犠牲者のポーズを復元することができました。
約30時間の間にヴェスヴィオ火山の噴火活動の影響を受けた都市の崩壊に至った出来事の歴史を再構築するための貴重な直接資料は、ラテン語の作家、小プリニウスから得られたものです。当時この少年は母親と一緒にカラスが火山から飛び立つ約20kmの岬にいました。小プリニウスは叔父の大プリニウスの従者でした。彼は37巻からなる百科全書である自然史の有名な著者でした。西暦79年、大プリニウスはカンパニア州の艦隊司令官として滞在し、噴火の最もよく知られた犠牲者の1人でした。実際彼はヴェスヴィオ火山から来るはいと有毒ガスから逃れるために海に辿り着こうと海岸になだれこんだ人々全員に援助を提供しようとして窒息死しました。
歴史家タキトゥスはプリニウスに叔父の死の状況を話すように頼みます。このようにしてタキトゥスはローマの歴史に捧げられた彼の作品を統合することができました。『歴史』と題されたこの著作でタキトゥスは西暦69年から96年までのローマの歴史をカバーすることを意図していて、彼の分析の一部は西暦79年、特に火山の噴火に関連した出来事にも焦点を当てていたでしょう。
小プリニウスによって書かれた手紙はポンペイの歴史をひっくり返した悲劇的な出来事を再構築するための非常に重要な情報源です。手紙の中で煙中毒で亡くなった叔父のこと、ヴェスヴィオ火山の周囲を数キロメートルにわたって覆った灰と礫の雨のこと、そして彼と母親がなんとか命を救った方法について語っています。
ポンペイは16世紀末に発見されました。そして、この場所で実際の考古学発掘は1748年に始まったばかりです。これからもたくさんの発見があることでしょう。2000年にも及ぶ歴史に戻り、過去に作り出した人間の創造性や技術力、それでも勝てない自然の偉大さ、爆発的な力を目の当たりにするため人はここを訪れ、感動するんじゃないでしょうか。
そんなポンペイを全て見ることは不可能に近いですが、訪れて本当に良かったと思っています。