Via Vittorio Emanuele
パレルモのヴィットーリオ・エマヌエーレ通り。南北を2km、海まで続く目貫通りですが、市内で一番古い通りだそうな。その建設はフェニキア人による都市の創設にまで遡り、港地域と古代都市の城壁のすぐ外側に位置するネクロポリスを結ぶ幹線道路でした。大聖堂、ノルマン宮殿、ヌォーヴァ門、フェリーチェ門など、さらに多くの教会や歴史的建築物もこの通りにあります。マクエダ通りとの交差点にはバロック様式の中心、4つの歴史的中心地区の合流点、クアットロ・カンティがあることは以前お伝えしたところです。
この通り、歩行者天国になっていて歩きやすい。
通りにもテーブルが並べられているのでそんなバールでのんびりできます。日陰がいいのぉ。
そして画像奥に見えるのがヌォーヴァ門ですね。
かつてパレルモは城壁に囲まれており、その出入りの門がありました。最も重要なものがこのデル・パラッツォと呼ばれた門です。おそらく1460年に門は閉じられ、別の門がメインストリートの端に建てられ、デッラクイラ(鷲)門と呼ばれていましたが、住民はすぐにヌォーヴァ(新しい)門と呼んだそうです。
1667年の雷雨の時に雷が上階の部屋に置かれていた大量の弾薬を爆発させ、非常に深刻な被害をもたらしました。
門は同年すぐに同じ形に再建され、門は歴史的中心街側とモンレアーレ側の二つともが正面とされています。リバーシブル♪
アーチの上にはパレルモの翼を広げた元老院の鷲と副王コロンナの紋章があります。ひたすらオシャレですね。それに16世紀のロッジャ(開廊)と色鮮やかなマヨルカ焼きで覆われたピラミッド型の屋根が見える。
頂上にはランタンがあって、その中には鉛で覆われたドームのある部屋、さらにその先端には3つの銅球があり、その最も小さい球には風の終了を示すための鉄の羽がついていました。
敗北した4人のトルコ人を含むフリーズとシンボルで飾られていて、そのうち2人は腕を切断されています。窃盗罪で告発されたものから切断されたものだと。もう2人はアフリカの勝利を記念して服従の印として腕を組んでいるんだって。
最後にちょっとだけこの門をイジってみます。
1578年、副王マルコアントニオ・コロンナは、王宮からヌォーヴァ門の2番目の部屋に通じる石の欄干が両側にある通路を建設させて、その部屋は副王の不倫に使ったんだって。若くない副王と若い男爵夫人のダブル不倫。目撃者複数。その模様を当時の年代記記者が書いてるんだってさ。2人は悲劇で終わりを迎えるのよ。人ごとだからどうでもいいけど、なんかドロドロしていて物好きには絶好のストーリーだったのかも。
噂好きは今も昔も同じだな。タイムリーすぎてウケました。
現代の記者…
なんか、沢山貰ったので読んでいます。一番上に書かれているってことはこれで売ろうと週刊誌が思っているんだろう。
素敵な門だと思ってたのにさ。昼ドラに全部持ってかれちゃったよ。