みなさん、こんばんは。
海沿いに立つ美しいミラマーレ城です。ここの主とその人生を語りながら、ミラマーレ城の部屋の画像を載せていきますね。
オーストリア・ハンガリー皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848-1916)の弟がマクシミリアンで、この城の主でした。
マクシミリアンの妻はベルギー王の娘、シャルロット・フォン・ベルギエンです。二人はシャルロッテが16歳、マクシミリアンが24歳で出会い、シャルロットが彼に恋心を持ちます。プライド高く美しい才女、シャルロッテとそういうタイプが苦手なマクシミリアンは1857年政略結婚します。
フランツ・ヨーゼフ1世がマクシミリアンをヴェネツィア王国の副王に命じました。そして二人はイタリアに来るのです。当時(1857)のイタリアはリソルジメント(イタリア統一運動)の真っ最中で、二人はそこに同調すると、兄のフランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア側、つまり統一反対側なので激怒し1859年にマクシミリアンのヴェネツィア王国副王の任を解きました。
そこでニートになったマクシミリアン、ミラマーレ城を作るのですね。そしてここに住み始めました。
そもそも二人の仲は良くありませんでしたので、決して楽しい生活ではなかったかもしれません。
そして不幸にも世継ぎが産まれない、王族出身のシャルロッテは悶々とします。ハプスブルグ家のマクシミリアンというブランドと結婚したのになんか人生うまくいってないなと思いました。彼女は恋愛結婚だと思ってたのに、おっかしいなぁ…
その頃です、フランス皇帝ナポレオン3世がマクシミリアンにメキシコ皇帝になるように命じられました。当時のメキシコは完全にフランスが統治できておらず、傀儡政権としてのポジションがメキシコ皇帝です。マクシミリアンは乗り気じゃない、でも皇后というブランドがシャルロッテは欲しかった。
そしてミラマーレ城で戴冠式が行われました。
1864年、マクシミリアンは嫌嫌メキシコの土地を妻と共に踏みます。そこでは歓待されない二人に待ち受けた状況、古びた宮廷、相変わらずの反乱、それでもシャルロッテはこの地位を守り抜こうとして今のですが…
1866年、ナポレオン3世はメキシコから手を引きます。二人は取り残されてしまいました。それでもシャルロッテは諦めません。せっかく手に入れた皇后の地位です。旦那がもういいやって言っても、『アンタ、もうちょっと頑張んなよ』と喝を入れます。
とうとうシャルロッテはメキシコから単身フランスに行き、ナポレオン3世に懇願するも協力を断られたので、ヴァチカンの教皇ピウス9世に懇願するも同様な結果に。彼女の根性はまだありました。もう一度ヴァチカンに行き会うまで外で横になって寝るというのです。そうしてヴァチカンもそれなりの位の人をそんな扱いができないと招き入れたそうです。
彼女はヴァチカンで宿泊した唯一の女性です。
その後シャルロッテはミラマーレ城に幽閉されることになるのです。
一方メキシコにいたマクシミリアンは反乱軍に捕らえられ死刑宣告を受けます。
(皇帝マクシミリアンの処刑(1869):エドゥアール・マネ)
1867年6月19日、34歳のマクシミリアンは銃殺刑に処されました。
しかし一連の出来事に精神異常が続いたシャルロッテはこの事実を知りません。彼女の精神は破綻し、どうにもなりませんでした。その後ブリュッセルに戻ったシャルロッテは廃人同様だったんです。
1926年、シャルロッテは86歳で亡くなりました。
そんな悲しきマクシミリアンとシャルロッテの人生にちょいちょい出てくるのがミラマーレ城です。
家の中を覗いて来ました。
温厚で保守的なマクシミリアンとプライド全開のシャルロッテはそもそも合わなかったんです。でもシャルロッテは恋愛結婚だと思ってたし、それでもマクシミリアンだってなるべく彼女の意向に沿うように努力はしていました。しかし悲劇はこのように終わりました。
彼らの家、ミラマーレ城はトリエステにあり、彼らの生活が少し覗くことができます。
ここの入場料は15ユーロです。写真は撮れます、フラッシュNG。
ミラマーレのバスルームです。
フィレンツェ、ピッティ宮にあるエリーザ・ボナパルトのバスルームを思い出しました。
時代的には同じですもんね。
ここはシャルロッテのお部屋。
彼女は音楽を奏でたり絵を描いたりしていたそうです。
寝室。
ベッドはミラノから贈られたもの。
礼拝堂。
お金持ちは自宅にあるんです。
どんなに拝んでも、人生の歯車は狂った。
この城は豪華で裕福で、でも悲しみと不幸は残りました。
こちらもよろしくお願いいたします🙇
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