みなさん、こんばんは。

レッチェのドゥオモ広場です。
ドゥオモのファザードは被昇天の聖母と1658年に町の守護聖人となった聖オロンツォを讃えたものとなっております。キリスト教の黎明期に建設された大聖堂はノルマン時代、シュヴァーベン時代に聖女イレーネに捧げられて再建されました。今日私たちが目にするのはバロック試合に建築家ジュゼッペ・ジンバロによって建てられたものです。ジンバロは『より壮麗で大きな教会を建てるため』に旧教会を取り壊しました。
1659年、バロック再建の揺るぎない主導者であったルイージ・パパゴダ司教が新教会の礎石を据えました。新教会は旧教会よりも広大で、より象徴的な建物となることが意図され、同時に修道会の堂々たる建物にも匹敵するものでした。
サレント地方におけるバロック建築の先駆者となるジュゼッペ・ジンバロはこの新しい大聖堂に記念碑的な外観を与え他に類を見ない二重ファザードの教会を設計しました。
正面ファザードはより簡素ですが、広場に面したファザードはより豊かで荘厳な雰囲気を醸し出しています。
ファザードが二つあるってちょっと面白いですね。
ちなみに聖オロンツォ(Rudiae 22-Lecce 26 Ago 68)は伝説によるとレッチェとサレントの最初の司教であり、聖パウロによって選出されました。16〜17世紀の物語によると、オロンツォはキリストの誕生から22年後、レッチェ近くの古代都市ルディアエで高貴な異教徒の家族からプブリオという名前で生まれました。彼の父親は皇帝の会計係であり、35歳で父の仕事を引き継ぎます。
ある日、聖パウロは彼の手紙をコリントのユストゥスに届けさらにローマに届けることができたと言われています。旅行中、ユストゥスはサレント沖で激しい嵐に脅かされ、現在のサン・カタルドのビーチで難破し、そこで彼は狩猟中のプブリオと甥のフォルトゥナート救助されました。
ユストゥスはプブリオに唯一の神について話し、そこでプブリオはキリスト教に改宗し、フォルトゥナートと一緒に洗礼を受け名前をオロンツォに変えました。ユストゥスとオロンツォは福音を説き始め、異郷の司祭からローマの司祭に避難されました。ジュピターの神殿で香を捧げる押しつけに対し彼らは反対し信仰を公言しました。彼らを執行官は鞭打ちに処し、刑務所に閉じ込めました。
釈放されたユストゥスはローマの聖ペテロの元へ行きました。
サレントに戻って彼らは説教者として働いていましたが、皇帝ネロ(64年)が望んでいたキリスト教徒に対する迫害が強化され、オロンツォとユストゥスはレッチェから強制的に追放されました。二人はさまざまな都市を訪れ、迫害を逃れるために洞窟で密かに祝いました。
後に彼らは再びレッチェへ連れ戻され、帝国の神々に対する大逆罪で起訴されレッチェの法制度により斬首による死刑を宣告されます。苦しみと嫌がらせの11日間の投獄。彼らはレッチェから3キロの距離にある場所で斬首で殉教しました。
ファザード中央にある大きなブロンズ製の扉はサレント地方の彫刻家アルマンド・マロッコの作品で2000年のジュビレオ(聖年)を記念して大司教の依頼により製作されました。復活して栄光に満ちたキリストが描かれており、太陽と月が象徴的です。
アペして、ご飯食べに行きます。
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