みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『25:教育実習に行ってみた』についてお話ししました。
私の時代はとにかく18歳になったら車の免許を取るって普通の流れでした。勿論車の免許は田舎住まいの方にとってより大事なことだとは思いますが、都心に住んでいる友人たち誰でも取得していたからそういう時代だったんだと思います。そこには乗る乗らないっていうより、大人になる第一歩みたいな通り道が教習所だったように覚えています。多分身分証明書イコール運転免許証だったのかもしれません。高校を卒業するとクレジットカードを作ったり何かと身分証明書が必要となることも増えてくるお年頃だからですかね。学生証とは違ったちょっとキラキラしたものに私には映っていたかもしれません。
私は以前お話しした通り、進学をさっさと決めてしまった後は残りの時間を車の免許取得に使いました。車に乗ってはいけない厳しい高校だったもんですから、免許を取っても高校が免許証を預かるんです、卒業まで。色々考えますが、やっぱり校則がおかしい学校だったと思います。免許預かるとかちょっと異常ですよね。
放課後は教習所に行って、できる科目全て受けて高校卒業前までには免許は手に入りました。高校の近くの教習所だった為、卒業前までになんとか免許は取らないと意味もなく1時間以上かけて川越まで行くのは絶対嫌でしたね。
特に運転は上手かったとは思いませんが、合格した時は一安心でした。ただ、埼玉県の学科の試験(実技は教習所で免除)を受ける免許センターっちゅうのが鴻巣市ってところにあるのですが、大宮のさらに先のありえへん場所に存在します。埼玉県民にとって何か用があっても一日絶対潰れるので二度と行きたく無い施設なんです。自宅のある所沢から行くともう小旅行に近いです。遠いだけじゃなくて電車の本数も少ない上に鴻巣駅からバスに乗らないと免許センターまで行けない。これは埼玉県民だったら絶対気持ちはわかるはずです。
そこで私は学科を一回落ちています。あれに落ちるってなかなか無いと思うのですが、落ちましたね。で、次回また始発近くの電車に乗って鴻巣行って試験受けてようやく2度目で合格しました。みんな受かって私だけ落ちたような思い出があるので、多分恥ずかしかったんじゃなかったかと思います。確かにひっかけ問題とかありましたけど。でも免許が交付された時はすごく嬉しかったですね。運転できるようになって時々車も運転しましたが、主に単車が多かったです。学校行くのもそれで問題なかったし、渋滞とかも気にしなくて済んだので。
そんなある18歳の夏にもっと大きなバイクに乗ろうと決めてまた教習所に通い始めました。それが2度目の教習所です。私は身長が153しかないので本当は大型バイクとか体格的に向いていません。でも乗りたかったのよね、2輪が本当に好きでした。もっと言うと車の運転はちーっとも興味がわかなかったですね。
バイクの免許を取るにはまず入学までにテストがありました。倒れたバイクを三種類の起こし方で左右から計6回全てクリアしないと授業さえ受けさせてもらえません。ですから女性の場合はその辺の力とかコツをわかっていないとダメでした。私は器用じゃないけど気合いでバイク起こししましたね。どうしても取りたかったし。車の免許があれば授業数もかなり免除されますし、技能講習も時間的に少ないですから確か2ヶ月くらいで取得できたんじゃないかと思います。
8の字走行が私は得意でよくグルグル運転していました。
教習官(バイクの場合は高台から眺めてメガホンスピーカーで生徒に指示をする)が『○○番(ゼッケンをつけている)、お前が8の字が上手いのはよーくわかった!早く苦手な坂道発進のほうに行けー!』って毎回言われていたの、思い出しました。
ちっこい私がバイクを乗るのに猛反対だったのがうちの両親で、私の行動一々がおっかないんでしょう。でもこれも時間がある学生の時しか取れないと思い込んでいたもんですから両親に宣言してから取りました。結局いつも親の顔を立てて私は行動していましたね。自分のことですけど随分律儀な性格だったのかもしれません。私がどんなにバイクの運転が上手かったとしても身長のハンデは大きかったんじゃないでしょうか。その辺が両親の悩みの種でした。しかしその不安は的中する事になります。
私はある日とうとうやらかします。
交通事故に遭ってしまいました。バイクが全壊する非常に大きな事故です。
その模様は次回。
ブログランキングに参加しております。下の応援クリック2つともして頂けたらありがたいです。
みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『24:日本の英語教育』についてお話ししました。
さて、私が母校の中学校に行った時は6月から7月にかけての頃だったと思います。新学期が始まって、何となくクラスのまとまりも出て来たくらいの時期であり、夏休み直前といった緊張感もない季節のいい時でした。教育実習に参加するのは私を含めて4人だったと記憶しています。うち3名は大学生だったため、私だけ2歳下で同級生に会うことはありませんでした。実習の科目もそれぞれ綺麗に分かれていたので教わる先生も重なることはなくコミュニケーションを取る環境はとてもよかったです。
教えると言う事に特別な抵抗などもなく、どのようにしたら英語をみんなが楽しく関われるかを考えていました。私たちの頃は英語は中学校から必須科目だったため、興味がある子とない子がはっきり分かれてしまい、それが得意苦手意識を作ってしまいました。英語に触れることのできることは非常に少なく、テレビでウィッキーさんが街の人に声をかけたり、ルー大柴が不思議な言い回しで話すの聞くくらいでした、時代だなぁ…。よっぽど洋楽が好きだったりしなければ英語は苦手な科目になってしまうかもしれませんね。
短い期間だったとはいえ、1年前に経験したカナダ滞在はとても大きかったのだとその時に気づきました。本場で学んだことで耳が良くなっていたんですね。そういや短大の授業でエラいのがありました。コメディードラマを耳のみで聞き取り、なんの話題で盛り上がっているのかをみんなで話すってのがなかなか難しいんですよ。しかもコメディーって独特の言い回しがあるから大変でした。あれが本当にしんどくって最初は泣きながら授業に参加した覚えがあります。でもそう言う練習も教育実習の時に何か役に立ったのかもしれませんね。
実習の際、私を担当する英語の先生は私自身も教わったことのある女性でした。懐かしさもありましたが、数年ぶりに会うと授業の穴が見えてくるものです。日本らしい文法や形から入った授業を取り入れていて、これは勿論受験勉強の時に必要なテクニックばかりでしたが、では興味が出るのかと言ったら生徒側の一部からは受け入れられないものでした。あれは先生のせいではなく、日本の英語教育の方向性がそうだったのだと思います。私はせめて自分がいる時くらいは少し伸び伸びやらせてもらってもいいかなと思いました。初めの1週間くらいは先生が行う授業をクラスの一番後ろで立ちながら聴講するのですが、その後からは自分でテキストを作り好きなようにやらせてもらいました。勿論相談はしますけど、殆ど問題なく先生からはOKが出ました。そう言う意味では臨機応変に対処して頂きました。自由にやらせてもらって良かったです。
ところで、日本で英語が浸透しない理由として江戸から明治にかけて既に日本人の識字率が高かったこと、鎖国その他で英語を特に学ぶ必要性がなかったこと、主に単一民族の国という背景があるのだと聞いたことがあります。でも英語は話せないより話せたほうがいいに決まっています。今でこそ自動翻訳機とか便利なものがありますが、とどのつまりが人間関係なら英語は話せたほうがいいですし、とにかく話せると楽しいです。私は翻訳機など使ったことはないけど、例えばどこかにホームステイしてその機械を間に挟んでコミューニケーションって無理でしょう。それなら片言でもジェスチャーをうまく取り入れて直接話したほうが伝わるものです。時代が進歩しても言語の勉強って必要じゃないかと常に思っていました。やって来たことは間違えありませんでした。日本語を知らない人と会話ができる喜びは知っていたので、それを生徒さんたちに分かってもらいたかったです。言葉を話せるのは視野が広がりますし、いいことばかりですね。
中学生ってこんなにしっかりしていて真面目で朗らかなんだって思いました。みんなかわいいなぁって思いました。やっぱりそう言うのを経験すると学校の先生になりたくなる気持ちがわかります。なんでもお試し期間っていうのはとてもよく見えるものです。いざその世界に入るととんでもない苦労が待っているんでしょうけど。また経験してもいいなってくらい教育実習は楽しかったです。
教育実種が始まって間も無く居酒屋で歓迎会を開いていただきました。私一人だけ未成年だったんですが、そう言うのあまり関係なかったのかもしれませんね。今は無理かしら。ちなみに送別会は今は無き近所のトンカツ屋さんで行いました。
その先生方の中に中学校2年生の時の男性担任がいました。皆さんも覚えているかわかりませんが、私にとってあまりいい関係性ではなかったあの先生です。そんなこともあるだろうとは思いましたが、やはりありましたね。一体どんな顔で会えばいいのかとも思いましたが、ポーカーフェイスで終始お話しすることばかりでした。先生も覚えていないのか話にも触れませんのでこちらも振る意味がないからあの頃の話題になることはありませんでした。どの先生も本当によくして頂いて、私にとっては思い出づくりのような形になってしまいましたが人前で話すこと、子供たちに向けて話すことなども一緒に勉強したことは今に生きているかもしれません。
実家に帰ると必ず通る中学校の横。学生さんたちの体育着や制服が私の頃と未だに同じで時が止まったようです。校庭の横を歩く時、微妙に時期が違う二つの経験がいつも蘇ります。穏やかになつかしいって思える場所があるのは素敵なことです。
ブログランキングに参加しております。下の応援クリック2つともして頂けたらありがたいです。
みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『23:Where's Mika?』についてお話ししました。
19歳の初夏、教育実習に行って来ました。
しかし私が教師になりたかったかと言うとNoです。その時しかできない経験があって、それが後々何かの役に立つならやってもいいかなと言う判断でした。教育課程を受講することは他の人たちより勉強しなくてはいけません。それでも社会に出た後に時間を戻して経験できるものでもないし、先生になりたいというより、教育実習は正直興味がありました。先生方はどんな気分で私たちに教えていたのかな、接していたのかなって思いました。
思ったより教育課程はあまり実になるものではありませんでしたので、時間の無駄だったし少しがっかりしました。教育心理学とか使える授業かと思いましたが全然で…あれらはやってもやらなくても教師になる事にはなんの意味もないカリキュラムというのが受講した感想です。私は車の教習くらい必要なものだと期待していたんですがね。
しかし教育実習は本当に楽しみでした。一度やってみたかった!中学生を平均で14歳と仮定したとしても当時の私が19歳なのだから、見習い以前の半人前とは言え彼らは私たちを恐らく『先生』と呼ぶのです。斬新な感覚ですね。私たちの間には僅か5歳の違いしかないのに…当時私はすでに家庭教師をしていたのだから先生と呼ばれるのは免疫があったものの、学校で生徒から呼ばれるのとは訳が違います。今の中学校の英語はどんな授業をしているのだろう?どのくらいの実習期間があったのか覚えていなかったので調べたところ、中学校は現在3週間の実習があるようです。そんなに長かったかなとも思いますが、どんなに短くても当時2週間はやった覚えがあります。
通常は母校に行くので私も例に倣って所沢の母校へお世話になる事にしました。先ほども話した通り、私がこの中学を卒業して5年も経っていません。知った先生もまだ在職していました。私自体は成長期というものが無かったので教室が狭く感じるとか机が低いとかの違和感はなかったです。さらに驚いたのはたった数年間でしたが、英語の授業が全く進化していなかった事です。日本の英語の授業は昔から良くないと思っていました。あれは受験勉強みたいなもので、使える英語を全く教えていないからです。それをわかっていてみんなが受け入れている英語の授業はなんの意味あるのか疑問でしかありませんでした。本当に勿体ない、中学校、高校だけでも6年間は英語の授業があるのです。なのに高校を卒業した際に英語を話せる学生さんはどれだけいるのでしょうか?
資料:国別英語力比較2018【EF,EPI】
これは絶対に文科省とか教育委員会もいけないと思います。子供が学べる時間って本当に限られているのに大人の勝手な意見で子供たちはいつも翻弄されています。詰め込みの授業の時代もあったし、ゆとりの時代もありました。これは本当に酷いし子供を馬鹿にしていると思います。私の頃の英語教育も酷かった。私が中学時代の英語教育は少し無法状態で先生が独自に決めた教育方法をそれぞれにすすめていました。よって教える先生やクラスによって差が出ていたし、喋れるのと試験の成績との乖離が酷かったです。今はもう少しよくなっていればいいのですが、イタリアへ旅行に来る卒業旅行生をみてもあまり日本の英語授業に成長がないのかなとは感じてしまいます。
みんな分かっているのにどうして変えられないのでしょうか?
私が30年も前に感じていてた生産性の無さは今も着々と受け継がれているのかもしれません。
そもそも『先生』と呼ぶのはいいと思うんです。しかし呼ばれた方はちょっと勘違いしてしまうかもしれませんね。
日本では苗字をつけて先生と呼びます。ここ、イタリアでは幼稚園、小学校ではマエストロ(マエストラ)と呼びます。『先生』に名前をつけて呼ぶのは幼稚園までだそうです。それからは先生のみの敬称を使います。中高校とプロフェッソーレ(プロフェッソレッサ)、大学に入ると先生によってはプロフェッソーレとさらにドットーレ(ドットレッサ)と呼んだりもします。私の時代には先生と呼ぶべき素晴らしい教師との出会いもありましたが、そんな思い出もなく学生生活を送る人もいるなら不運としか言いようがないですね。
楽しかったです、教育実習。その模様は次回!
ブログランキングに参加しております。下の応援クリック2つともして頂けたらありがたいです。
みなさん、こんばんは
8月はダイエットの月と決めて生活しております。
体内の機能を良いものに変えて、悪いものを減らす作業をしています。ダイエットと言うと痩せるだなんだって事になりそうですが、あまりそれは関係ないです。勿論ぜい肉を減らすのも良いんですが、よく想像しがちな細い体型に私はあまり魅力を感じません。健康的に元気な体を目指しています。
で、いろいろ試行錯誤してかれこれ3週間は経っているのですが、残り半月になったので途中経過を勝手にお知らせしようと思いました。
ダイエットと並行して禁酒をしています。禁酒は一応8月限定で、9月からはまた飲もうと思っています。禁酒をする事にした理由は、7月まで酷かったんですよ。家にあるだけ呑んじゃう。ストックも全部呑んじゃう。これは…
病気じゃん
と思ったので、家の酒が全部無い段階で始めました。よく言う『休肝日』って生温いやり口だなって思ったので1ヶ月呑まないキャンペーンを。結論、うまく行っています。一滴も呑んでいません。なんせ私は毎日酒屋に行っている(市場ね)んだからお店のスタッフにも全部伝えてお酒のブロックをしてしまった以上、呑めない方向に追い込んでしまいました。これは正解だったな。あと半月、全然余裕です。
それから禁煙も始めています。今日で2週間くらい経っていると思いますが、これもうまく行っています。この前も話した通り、成功策は
『欲望を無視すれば成功する』
これで問題ないです。吸いたい気持ちを無視し続けています。
他人の煙も気になりませんね。これが完璧に止められたら年間25万円の節約みたいです。本当はこう言った皮算用が嫌いなんですけど、おおーって思いました。この金額より、吸えないストレスや買いだめしておかないとって思いをしなくて済む気楽さはちょっと痛快。健康のために止めている訳ではないけど(そもそもは暇だから禁煙を始めてみた)、何だか止められそうだな。吸おうと思えばいつでも戻れるのでそれだけ気をつければ達成できそうです。
そして問題のダイエットですが、今は始めたばかりから少し変化しています、食生活が。現在はデフォルトが完成しています。
それが↓
注)動物園のエサではありません。
私は一度気に入るとずっと同じメニューでも全く苦にならないゾーンに入るのですが、まさに今はその中です。現在1日3食でやっています。
朝はトマト2つと卵を2つ使ってオムレツ。おにぎり一つ。
昼は食べたかったら炭水化物。いらなかったら食べない。
夜はセロリ。主に炒めて食べています。一週間に約1.2キロくらいのを2束買っていますので一回で300gくらい摂取します。基本は好きな量を食べて良い事にしています。1束300円くらいだからやっぱりイタリアはセロリ安いですね。
レモンは一日2個くらい摂取しています。
このルーティンにしたら信じられないほど体調がいいので8月以降どうしようか考え中です。野菜は旬があるから決めかねています。
このコロナ禍だから外食も減ったのが勝因ですね。あと半月、余裕で乗り切れそうです♪
ブログランキングに参加しております。下の応援クリック2つともして頂けたらありがたいです。
みなさん、こんばんは
この記事は私の人生を振り返ったものです。バックナンバーは『なぎさの作り方』で読むことができます。 前回は『22:宗教に勧誘された話』についてお話ししました。
短大時代、私はゴルフ部の部長をしていました。
あれは別に私ができるからとかしっかりしているからとかではなくて、くじ引きで負けた様な感じで決まったものです。
私は普通のサークルだって全然参加しないのに、ほとんどを副部長のナオに任せてばかりいました。たまにキャンパス内の打ちっぱなしをしたり、大学同士で交流のあるところと一緒にやったり、学園祭で露店を出すときのみ俄然張り切る部長でした。そんな中、やっぱり仲良しが同じゴルフ部に集まっていたので、冬にスキーに行くことにしました。
白馬かどっかに行った覚えがあります。
新宿で待ち合わせして私とナオとミカは同じ所沢近辺だったので一緒に西武新宿駅からみんなと合流して夜行列車で白馬に向かいました。到着して少しロッジで寝た後、次の朝早くから滑りに行きました。滞在はほんの数日間でしたが、すごく楽しかったです。
そして再び新宿に戻ってきて、そこで解散しました。私とナオとミカは帰りの方向が同じなので一緒に西武新宿駅に戻って所沢への切符を買い、駅構内に入ったところ、
『トイレ行ってくるね』とミカが言いました。
私とナオは荷物も結構あるからミカだけ一人でトイレに行かせて待っていました。ところが15分経っても20分経っても戻ってきません。そこで私とナオが交互にトイレへ様子を見に行ったのですが、ミカが消えていました。
ミカは細身の美人でちょっと抜けてるところはあれど愛嬌が優っていてみんなが許したくなるタイプです。そんな雰囲気があるので異性にもモテる女の子でした。ミカがいなくなったのは間違えなく、私たちが待っていた場所はミカも知っていたし、見通しも良かったので私たちを見失うことはなかったはずです。今の西武新宿駅がどうなっているか知りませんが、当時は改札口入ってすぐ右手にお手洗い、で奥にホームがある誰も迷いようのない造りでした。時間は20時ごろだったと思います。私もナオも自宅に連絡済みで駅まで車で迎えにきてもらう様に到着する時間と共に伝えてありました。
どうやら予定通りの電車には乗れそうもありません。それよりミカが消えてしまった。彼女は身長こそあれど痩せているのでちょっと力のある男性が抱えたらすぐに持ってかれてしまいます。しかしあの時間帯で男性が女性を抱えていたらそれもおかしい話だ。
ミカはどこへ消えてしまったのでしょう。
私とナオはすっかり顔が真っ青になってしまい、どうすればいいか冷静に考えようとしました。駅構内の放送をかけてもらい、それと同時に携帯電話に連絡をしました。ミカは電話に出ません。それこそ携帯電話やPHSが普及し始めた頃です。それによりミカの自宅の電話番号が分からず、ご両親にその状況を伝えることができません。すでにミカが行方不明になってから1時間は過ぎていました。
『落ち着こう、ナオ』私はそう言って、もう一度今までの状況を振り返りました。
改札を入ってからミカがトイレに行きたいと言ったので彼女の荷物とともに『ここにいるよ』と伝えて私とナオはミカと確認をとっていた。ミカが西武新宿駅を迷子になるはずは絶対にない。駅構内もトイレも大きな混雑はなかった…
『おかしい』
いつ警察に話をしに行くか、私たちは二の足を踏んでいました。そのうちひょっこりミカが現れる気がしたからです。大袈裟にしてしまったらそれもどうなのだろう、でも何か事件に巻き込まれているなら早く警察に行ったほうがいいし。私たちはどうすればいいのか少し混乱してわからなくなっていました。
ナオも私もまた自宅に連絡し、状況を説明してミカの行方を駅で待っているので所沢に帰るのはまだ無理だと伝えました。ナオは泣きそうにな顔をしていましたが、実は私も心の中では泣きたかったです。どんな顔でミカのご両親に会えばいいのかまで考えていました。謝って許してもらえるだろうか…
スキーに行く時期ですから寒い時のお話しです。私たちが駅で心細い思いをしながらミカを探して気づいたら23時くらいになっていました。ようやく駅構内の放送で電話が私たちに来ていることをしり、慌てて駆けつけました。相手はミカでした。どうなってるんでしょう…
これがお粗末な話なのですが、ミカはトイレから戻ると電車が出発しそうだったので慌てて飛び乗ったそうです。一人で荷物も持たずに所沢まで帰っていて、それを知らない私とナオは荷物とともにミカの帰りを待っていたのです。そりゃどれだけ探しても会えるわけはありません。しかし、ミカよお前はバカか。
私とナオはそれぞれの荷物プラスミカの荷物を持って所沢に向かいました。所沢駅ではミカが泣きながら両親とホームで待っていました。
『ごめんね、ごめんね』
いや、本当に無事でよかった。そこでミカに荷物を預けて私はナオとナオのお母さんが運転する車で私の家に向かってもらいました。車内で私たちが話した内容は言うまでもなく不可思議なミカの行動でした。緊張の糸がほぐれたからか怒りというより笑いしか起きませんでしたね。夜も遅くなって方向も全然違うのにナオとお母さんは私を家で下ろしてくれてからようやく自宅へ帰って行きました。
私とナオは長時間寒空の下に居たせいもあって一週間ほど風邪で寝込みました。
冬になると、スキーに行くと、西武新宿駅を使うとなぜか私たちはあの出来事を思い出すのです。そして毎回同じことを話します。
『なんでミカは手ぶらで電車に乗ったんだろう?私たちを置いて。』
そして毎回笑うのでした。
(あまりに暑い日が続くのでこんなエピソードを思い出し、書いて見ました)
ブログランキングに参加しております。下の応援クリック2つともして頂けたらありがたいです。