みなさん、こんばんは。
ミラマーレ城を後にします。
なかなか見応えのあるお家でした。
またバスに乗って中心街に戻りましょう。
バス停はどこにあるか知らんが、この海岸線を通ってりゃバス停見えてくるような気がする。
とても歩きやすい遊歩道。夏はとても気持ちがいいんでしょうね。
天気はいいんだけどやっぱり冷たい風が肌に突き刺さる。
そりゃね、2月だもんな。雨が降らなかっただけ良しとしよう。
お、6番のバス停がありました。
ここからどこかに行きます。
間も無くバスが来たので乗ります。
隣に座っていた地元のおっちゃんと話が弾み、港の方に行こうと思ってると伝えると駅で降りて8番のバスに乗り換えるといいよと教えてくれました。さらに美味しい魚介のお店も教えてもらっちゃった。本当にここの人たちは優しいんです。落ち着いていて、笑顔で親切な人ばかり。この町、好きになった。
駅前でバスを降り、おっちゃんに挨拶して別れる。
降りたバス停でそのまま待つと8番のバスがやってきました。
ごちゃごちゃ市内を走った後に海岸線を走るバスでした。
おっちゃんに教えてもらったレストランの近くで降ります。
ランチ!ランチ!
このお店はそのおっちゃんもよく行くらしく、絶対行ってみてってイチオシのようでした。
【13時00分】
レストランの入り口にメニューが貼ってある。
うまそー!
食べたいものを選んでいざ店内へ。
なんかアットホームな店内です。
お店の人が出てきたので、2人ですって言おうとしたら、
『すみません、予約でいっぱいなんです』
ガーン

奥の方では大人数で誕生日かな?ワイワイやってる声が聞こえます。そういやこの日は土曜日でした。先ほど知ったお店なので予約も何もできるはずもなく撃沈。
いいもん、またここに来よう。ショップカードだけ頂きます。
月曜と日曜夜が定休です。
じゃ、ランチどうしようかーって話してて。
駅から8番のバスに乗って海岸線を走っていた時に海側にEATALYがあったんです。結構大きめの。てか、フィレンツェのが小さいんですけど。
『イータリーで食べよう』
えー、やだ。何が楽しくってトリエステまで来てイータリーって。地元のが食べたいんだーって。
そしたらイータリーだってその町ごとに特別なレストランがあるかもよって言われました。私、イータリーってあんま行ったことないから反論もできず行くことにしました。
ここに魚介のレストランがありました。流行っていたので並んでここで食べることにしました。
黒板に本日のメニューが載っています。みんなワイン飲んで楽しんでる。ここでさえ予約をする人も多いみたい。並ぶ私たちの後ろからどんどん人が入って座ります。おおー!
友人は本日のプリモっての選んでました。
私はイカの煮込みポレンタ添えにした。
ちょっと味付けが濃かったかな。イカは柔らかく美味しく頂きました。
店内にはお魚が並んでて、メニューになくても作ってくれそうだし、ここで買って帰ってもよさそうでした。
あー、お腹いっぱい。
こちらもよろしくお願いいたします🙇
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中央市場に来たい人は、
みなさん、こんばんは。
海沿いに立つ美しいミラマーレ城です。ここの主とその人生を語りながら、ミラマーレ城の部屋の画像を載せていきますね。
オーストリア・ハンガリー皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848-1916)の弟がマクシミリアンで、この城の主でした。
マクシミリアンの妻はベルギー王の娘、シャルロット・フォン・ベルギエンです。二人はシャルロッテが16歳、マクシミリアンが24歳で出会い、シャルロットが彼に恋心を持ちます。プライド高く美しい才女、シャルロッテとそういうタイプが苦手なマクシミリアンは1857年政略結婚します。
フランツ・ヨーゼフ1世がマクシミリアンをヴェネツィア王国の副王に命じました。そして二人はイタリアに来るのです。当時(1857)のイタリアはリソルジメント(イタリア統一運動)の真っ最中で、二人はそこに同調すると、兄のフランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア側、つまり統一反対側なので激怒し1859年にマクシミリアンのヴェネツィア王国副王の任を解きました。
そこでニートになったマクシミリアン、ミラマーレ城を作るのですね。そしてここに住み始めました。
そもそも二人の仲は良くありませんでしたので、決して楽しい生活ではなかったかもしれません。
そして不幸にも世継ぎが産まれない、王族出身のシャルロッテは悶々とします。ハプスブルグ家のマクシミリアンというブランドと結婚したのになんか人生うまくいってないなと思いました。彼女は恋愛結婚だと思ってたのに、おっかしいなぁ…
その頃です、フランス皇帝ナポレオン3世がマクシミリアンにメキシコ皇帝になるように命じられました。当時のメキシコは完全にフランスが統治できておらず、傀儡政権としてのポジションがメキシコ皇帝です。マクシミリアンは乗り気じゃない、でも皇后というブランドがシャルロッテは欲しかった。
そしてミラマーレ城で戴冠式が行われました。
1864年、マクシミリアンは嫌嫌メキシコの土地を妻と共に踏みます。そこでは歓待されない二人に待ち受けた状況、古びた宮廷、相変わらずの反乱、それでもシャルロッテはこの地位を守り抜こうとして今のですが…
1866年、ナポレオン3世はメキシコから手を引きます。二人は取り残されてしまいました。それでもシャルロッテは諦めません。せっかく手に入れた皇后の地位です。旦那がもういいやって言っても、『アンタ、もうちょっと頑張んなよ』と喝を入れます。
とうとうシャルロッテはメキシコから単身フランスに行き、ナポレオン3世に懇願するも協力を断られたので、ヴァチカンの教皇ピウス9世に懇願するも同様な結果に。彼女の根性はまだありました。もう一度ヴァチカンに行き会うまで外で横になって寝るというのです。そうしてヴァチカンもそれなりの位の人をそんな扱いができないと招き入れたそうです。
彼女はヴァチカンで宿泊した唯一の女性です。
その後シャルロッテはミラマーレ城に幽閉されることになるのです。
一方メキシコにいたマクシミリアンは反乱軍に捕らえられ死刑宣告を受けます。
(皇帝マクシミリアンの処刑(1869):エドゥアール・マネ)
1867年6月19日、34歳のマクシミリアンは銃殺刑に処されました。
しかし一連の出来事に精神異常が続いたシャルロッテはこの事実を知りません。彼女の精神は破綻し、どうにもなりませんでした。その後ブリュッセルに戻ったシャルロッテは廃人同様だったんです。
1926年、シャルロッテは86歳で亡くなりました。
そんな悲しきマクシミリアンとシャルロッテの人生にちょいちょい出てくるのがミラマーレ城です。
家の中を覗いて来ました。
温厚で保守的なマクシミリアンとプライド全開のシャルロッテはそもそも合わなかったんです。でもシャルロッテは恋愛結婚だと思ってたし、それでもマクシミリアンだってなるべく彼女の意向に沿うように努力はしていました。しかし悲劇はこのように終わりました。
彼らの家、ミラマーレ城はトリエステにあり、彼らの生活が少し覗くことができます。
ここの入場料は15ユーロです。写真は撮れます、フラッシュNG。
ミラマーレのバスルームです。
フィレンツェ、ピッティ宮にあるエリーザ・ボナパルトのバスルームを思い出しました。
時代的には同じですもんね。
ここはシャルロッテのお部屋。
彼女は音楽を奏でたり絵を描いたりしていたそうです。
寝室。
ベッドはミラノから贈られたもの。
礼拝堂。
お金持ちは自宅にあるんです。
どんなに拝んでも、人生の歯車は狂った。
この城は豪華で裕福で、でも悲しみと不幸は残りました。
こちらもよろしくお願いいたします🙇
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中央市場に来たい人は、
みなさん、こんばんは。
ウニタ広場です。
サン・ピエトロ広場→グランデ広場→フランチェスコ・ジュゼッペ(フランツ・ヨーゼフ1世:1オーストリア皇帝&ハンガリー国王)広場→ウニタ広場→ウニタ・ディタリア広場(☜今ココ)。
名前が時代と共に変わっていった巨大な空間を持つ広場です。とにかくのびのびした空間で、フィレンツェにここまで広いところないのでど真ん中で踊りたくなるくらい気持ちがいい。
この広場ではコンサートも行われます。デュラン・デュラン、グリーンデー、ミカなどの国際的ミュージシャンからイタリア人歌手もライブをしてまして、1万人弱の観客がここに集まりました。
これは市庁舎。かっこいいですね、19世紀後半に作られ、20世紀前半に拡張されました。
この市庁舎下にあるアーチ、向かって右から二つ目、『i』の文字が見えます。ここがツーリスト・インフォメーションセンターです。
地図やいろんな冊子も頂き、あとは私が知りたいいくつかの情報も教えてもらいました。
インフォの人、とにかく親切丁寧。ついでに町の人と話しても、みんなニコニコしながら優しくなんでも教えてくれます。トリエステ人、心の余裕がハンパないです。フィレンツェもそんな悪くないと思っていましたが、トリエステは上のさらに上をいく感じでした。なんか、この町いいな。治安もすごく良さそうなのが伝わってきます。
タバッキで売っていたマグネット。マグネットはわかりやすく何が町のウリなのかがわかる。
ふんふん、市庁舎と、サン・ジュスト教会と、トリエステの海か。なるほど。
海沿いにある白いお城のようなマグネットがあります。
ここも推しらしい。よし、ここ行くぞ!
6番のバスに乗るらしい。バスチケットはタバッキで往復購入しときます。購入して驚いた、平日は60分乗り降り自由ですが、休日は240分ですって。1,50ユーロで太っ腹です。ちなみにフィレンツェは平日休日ともに90分乗り降り自由です。バスに乗ってチケットにガッチャンしますが、日付と数字がしっかり写ってる。それだけで感動よ。フィレンツェのバスやトラムはうっすいことが多いんです。2度打ちした時とかコントロールん時に弾かれて罰金になるんじゃないかとビビることありますもん。さらにね、右下の四角くキレているところはガッチャンした時に切られるんですよ。色々進んでるな、トリエステ。
さて、バス乗り場行こうかな。
【10時15分】
オベルダン広場。辿り着いたはいいが、バス停があちこちにあり、よくわからん。空き時間に世間話していたバスの運転手のお兄さん達に教えてもらってなんとかバス停見つけた。
そんなに待たなくってもやって来そうです。これ、冬時間のタイムテーブルなんで、ハイシーズンならもっとバスがあると思います。
バスに乗りました。ミラマーレ城というところへ向かっています。終点まで乗りゃいいらしい。他の乗客もほとんどが同じ目的地みたいです。ちなみに歩くと7km、2時間かかりますので、1,50ユーロ払ってバス乗りましょうね。歩くとか考えちゃう私、何かがおかしい😂
【10時40分】
終点です。海の隣ですね。
ここから乗客だった人たちが向かう場所についていきましょ。
気持ちいい天気です。
ほほう、ここからあのお城へ行けるのね。
中に入ってもそこそこ歩くな。
これがミラマーレ城!
これは先ほど
美しいですね。なんかオラ、ワクワクすっぞ。
こちらもよろしくお願いいたします🙇
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中央市場に来たい人は、
みなさん、こんばんは。
サン・ジュストの丘から見えるアドリア海、トリエステ湾が遠くに見えます。
トリエステはイタリア半島の付け根にあるので他の国とかなり近いです。よってそれぞれの国がこの地は自分達のものだと言い合い、コロコロと国名が変わった不思議な町です。
フランス革命に感化されてイタリアも統一しようぜと動き出し、ジュゼッペ・ガリバルディって兵隊さんとヴィットーリオ・エマヌエーレ2世って王様とカミッロ・カヴール伯爵(後のイタリア王国初代首相)などにより、イタリア王国が建国されたのは1861年。その時に統一できなかったいくつかの地域を『未回収のイタリア』といい、その地域のうちの一つがトリエステでした。当時トリエステはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にありました。イタリアは第一次世界大戦で戦勝国になりようやくトリエステはイタリアのものとなりました。勿論言語はイタリア語を話しますが、町を歩くとフィレンツェではなかなかお目にかかれない青い目の住民を見かけることがよくありました。
町は新市街と旧市街があり、旧市街は道が多少ごちゃごちゃしたこの辺りらしい。新市街は道路が格子状に走って、非常によく整備されています。歩行者天国もちょいちょいあるので街歩きには向いているかもしれません。
サン・ジュスト教会の隣にある同名の城。
14世紀、トリエステはヴェネツィアとオーストリアと長年の戦争をしていて、疲れちゃったトリエステはオーストリアの支配下になることを決めました。1468年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世がこの町の一番高台にある場所に要塞のような建物を作れと命令するんです。しかも市民の費用で。3年ぐらいで建物ができて、さらに1508年から130年ほどかけて要塞が作られました。
中に入ろうかと思いましたが、1時間以上もここで開館時間まで待つことはできません。
渋々丘を降りることにしました。
せっかく必死に登って来たのに、降りないといけません。
なんだかすごく長い階段だな。最近私は足の怪我が怖くって階段を降りるときは少々気をつけています。
【9時00分】
わかりにくいんですが、左側の建物がメルカート・コペルトです。確か8時から開いています。
メルカート=市場ですが、こればっかりはそこに行ってみないとどのくらいの規模だか内容だかはわからないです。だからとりあえず行ってみる。
あー、これは私が思ってたのとちょっと違ったかな。
八百屋さんしかありません。私は魚を探しているのです。魚、どこじゃ。
ということでジモティーに訊く。
『あ、隣にあるよー』
隣ですか。じゃ行きましょうか。
市場のお隣にあった。
市場じゃないが、ちょっと大きめな魚屋さん。みんな使っているみたいです。
よし、そろそろツーリストインフォメーションセンターが開いてると思います。ウニタ広場へ向かいます。
【9時40分】
時代によって名前が変化していったウニタ広場。1918年、第一次世界大戦後にイタリアに併合されたことでウニタ(統一)広場と名付けられます。しかしその後トリエステはイタリアとユーゴスラビア間で領土所有の一悶着が起きます。第二次世界大戦後、トリエステの北部は英米軍、南部はユーゴスラビア軍が統治し、国連の承認により1947年にトリエステは自由地区という特区になるんです。みんな大好きトリエステ、みんなが欲しいトリエステだったようです。トリエステ自由地区は1954年まで続き、ようやくイタリアに帰ってくるのに丸7年かかりました。
そこで1955年にそれを記念してイタリア統一広場(ウニタ・ディタリア)と広場の名前はさらに変更され現在に至ります。今回は長ったらしいのでウニタ広場と呼びます。
ま、イタリアは都市国家だから昔はどこも国境が沢山あったわけですが、イタリア王国になってからもトリエステは他国と接しているため、不安定な状態がずーっと続いていたんですね。
今思うとそこら辺にいる暇そうなおじいちゃん捕まえて昔話でも聞いておけばよかったです。
こちらもよろしくお願いいたします🙇
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みなさん、こんばんは。

トリエステに着いて、とりあえず歩いてみます。
海や運河のある町、いいなぁ。フィレンツェから来ると何もかも羨ましくさえあります。
フィレンツェでフェリーのある標識ないもんな、グッとくるぜ。
それに運河もある。船とか浮かんじゃってて、私にはリヴォルノとか近いイメージですね。この辺りは絵になるので何度も通りました。
海沿いからちょっと街中に入るとデッラ・ボルサ広場がある。
私はウニタ広場がこことしばらく勘違いしていましたが、後からこの事実を知りました。だって立派な建物があるんだもん。
この建物は商工会議所でした。オシャレですね。
こっから100mくらい歩くとローマ劇場がいきなり出てきます。半円形の劇場は幅65mあります。
1〜2世紀に作られた3,500〜6,000人収容できるものだったそうです。下部に14段(現在は12段)、上部7段で現在は再建されていません。この辺りはアレーナを意味するレナと呼ばれていたとかで、どっかにこれがあるんじゃないかって思ってたら17世紀にはなんとなく確認できた、19世紀にはこっそり見えた、20世紀にようやく見つけたぜってことになって今に至ります。
別に入場料を取るでもなくいきなり歩いてるとここが登場します。面白い。
さここからサン・ジュストの丘を目指します。
【8時15分】
このローマ劇場隣の上り階段をひたすら登る。少々しんどい、これ歳のせい。
で、道なりにとにかく上る。もう嫌だって頃にとうとう出てきたサン・ジュスト教会です。バラ窓が恐ろしく大きな教会です。
トリエステで一番大切な教会です。だからこの坂を登らにゃならんのかと思いきや、教会前に着いたら左側に大きな駐車場がありました。
…ですよね。
これじゃおじいちゃんおばあちゃんたどり着くの大変よ。私もこれもう一度って行ったら嫌かもな。ただ景色は非常に美しい。
この教会はサンタ・マリア教会と聖ジュストに捧げられた教会の統一された建物です。そのプロジェクトは14世紀に行われました。
教会に付属した鐘楼にくっつけられてる聖ジュストの像。棕櫚の枝を持つことから殉教者とわかります。
この方がトリエステの守護聖人です。303年11月2日にこの地で殉教しました。時代としてはめちゃくちゃ迫害全盛期ですよ。鞭打ちされても棄教しなかったジュストは溺死刑になったとか。このようにその町で殉教した方が守護聖人になるパターンもそれなりにいます。
聖ジュストはこの町を守る大事な人なのであちこちでサン・ジュストの名前は付いております。
トリエステで何を観るべきかと言うと、ほぼ一番にこの教会が挙げられます。勿論トリエステで一番重要な教会でもあります。
これ、教会内部。
未だにプレゼーぺが置かれています。
やはり今年がジュビレオだからなのでしょう。
ファザードにあるバラ窓は建物に対してとても大きく作られており、存在感があります。
天井も美しい造りです。
登って登ってやって来た甲斐がありました。
こちらもよろしくお願いいたします🙇
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