みなさんこんばんは
今回のお話はシリーズです。
バックナンバーの紹介です。
1.洗礼堂の入場時間と金額について↓
http://aleviola.exblog.jp/19351686/2.洗礼堂序章↓
http://aleviola.exblog.jp/19363185/3.洗礼堂:内部ヨハネス23世
http://aleviola.exblog.jp/19372083/4.洗礼堂:番外編 モザイク
http://aleviola.exblog.jp/19375315/
今日こそ洗礼堂のモザイクのお話をさせていただきましょう!
モザイクの件は十分前回お話したので今回はモザイクに描かれているお話について。
13世紀に作られたこのモザイク、チマブーエなど有名どころも手伝ったのではないかといわれていますがなんせ700年も前のお話ですから今となってははっきりしないですね。金色が眩しく、ひたすら豪華絢爛!
私初めてこの洗礼堂に入ったときの感動を思い出します。モザイクって美しいしビザンチンも好きだし色合いも柄もとにかく美しい。何故みんなドゥオモばかりに行って洗礼堂に来ないのか不思議で仕方がない。ぜひ見に来られたほうがいいですよ。
椅子もあるのでゆっくり見れるし写真も撮れるし。

↑まず目につくのが後陣の前にある巨大なキリストのモザイク。ここに表現されているのは「最後の審判(Giudizio Universale)」です。
キリスト教では、世界の終わりにキリストが人類の罪の裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分けるというのが最後の審判らしいが・・・
何故私はこんなにモザイクが好きなのだろう。色の具合とかめっちゃいい!!
しかもつくづくキリストが神々しい。素敵だ。
モザイクは中心から輪を描くように外側に何層にも話が描かれている。後陣上部のモザイクは先ほど言ったとおり最後の審判ですが、8角形の建物の屋根部分のうち3面がこの話に使われています。
ただしランタン近くの2周分はちゃんと360度使っています。

ランタンに一番近い部分はオーナメントになっていて、その外側には天使が描かれています。
外3周目:天地創造(storie della Genesi)
1日目 暗闇の中、光を作り昼夜が生まれる。2日目 空を作る。3日目 大地と海と植物を作る。4日目 太陽と月と星を作る。5日目 魚と鳥を作る。6日目 獣と家畜と神に似た人を作る。7日目 神、お休み。
正教会によると神が天地を創造したの紀元前5508年らしい。その神のある一週間がこんなんだった・・・
ぐるっとそのお話が見れます。

さらに外4周目:聖ヨセフの話(storie di Giuseppe)
ナザレのヨセフ、キリストの養父、マリアの旦那。労働者の守護聖人。国家・地域の守護聖人。
大工を生業にしていたということで大工道具を持って絵画では登場する。
処女受胎したマリアがベツレヘムでキリストを産み、殺害をたくらむヘロデ大王から逃れるために家族でエジプトへ逃げパレスティナに逃げ、なーんも悪いことしてないのにドラマのような生活をするんですね、ご苦労様です。
はっきりと自分の子ではないと知っていても、そこまでやるヨセフは見上げた根性を持っている。私は無宗教だから客観的にキリスト教を見ることができる。ただキリスト教徒に対してはリスペクトは持っているつもりです。旧約聖書も新約聖書も読み物としてはとてもよかったです。
最近日本では自分の子供じゃないとかなんとかで盛り上がっているようですが、聖ヨセフをぜひみならってくださいなぁ。子は宝なんですよね。
さらに外5周目:聖マリアとキリストのお話(storie di Maria e di Cristo)
マリアはキリストの母、ヨアキムとアンナの娘、ヨセフの奥さん。
キリストはみなさんご存知のとおり神の子。
さらにさらに一番外側:聖ヨハネの話(storie del Battista)
洗礼者ヨハネといった方がいいと思う。フィレンツェの守護聖人、ヨルダン川でキリストに洗礼した人物。父は祭司ザガリア、母はエリザベツ(ちなみにエリザベツとマリアは親戚)。荒野で修行をした徳の深い方。にもかかわらず殉教してしまう。領主ヘロデに捕まった。ヘロデの誕生日にサロメ(義娘)の踊りが上手かった褒美として
サロメはヨハネの首が欲しいと言ったためである。
あー、やっとモザイクのお話もできた。
次回は天国の扉をお伝えしたいと思います。
沢山の方にこのブログを開放すべく毎日頑張っています。
ブログランキングに参加しています。
お手数ですがポチっとクリック応援、ありがとうございます!!!
↓ここをクリック♪










にほんブログ村<
みなさんんこんにちは
本日のリフォーム状況です。
前回は天井が完成した部分まででしたが、今日はキッチンのタイルが終わりました。
前回紹介した淡いコントラストで決めました。

一日でできたんだな。
家の雰囲気がまたグッと変わりました。

ここにガスを用意しないと。買いに行く暇ないなぁ・・・

でも基礎って結構時間かかるけどそっからははやいんですね、

天井部分も全て木板で覆いました。
結局、2月の末に完成予定・・・想像していたけどね。
次回はちょい先になりますが、2階のガラスを取り付けます。
沢山の方にこのブログを開放すべく毎日頑張っています。
ブログランキングに参加しています。
お手数ですがポチっとクリック応援、ありがとうございます!!!
↓ここをクリック♪










にほんブログ村<
みなさんこんばんは
今日はモザイクについてお話したいと思います。サン・ジョヴァンニ洗礼堂のモザイクを見る前にちょっとお勉強。

モザイクとは、ガラス、石、木などの小片を寄せ集めて作るアートのことです。歴史は古く5000年も前に遡ります。
紀元前3000年くらいにコーンモザイク(鋲モザイク)というのがありました。シュメール人が築いたメソポタミア古代文明の都市国家ウルクではすでにこの技法が施されていました。コーンモザイクとは円錐形の釘状の彩色土器や石(釘の頭の部分を彩色している)を使って神殿などの建築物が装飾されていました。
これらはチュニジアのバルドー美術館が有名です。

↑「ウルのスタンダード(Lo stendardo di Ur)」と呼ばれる、メソポタミアの古代都市ウル(現在のイラク)で発見された象眼モザイクの箱が現存する最古のモザイクで紀元前2500年くらいのものと思われています。ロンドンの大英博物館にあります。

↑紀元前2~3世紀になるとモザイクはさらに発達し、テッセラといわれる技法(小片が1~2センチという小さな物を使うこと)によりさらに表現豊かになり、額縁をつけたりするようになってきます。ギリシャから北アフリカ、小アジアなどに広まっていきます。
紀元後になるとキリスト教が普及した地域では教会などにモザイクを使い始めます。以前までは床に施すのが主流だったのが壁などにもモザイクを使うようになり、大理石だけでなくガラスの間に金を挟んで豪華なモザイクが流行り始めます。

↑イスタンブールのアヤ・ソフィア寺院のキリスト。見事な表現と絵のような細かさが見事。ピカピカして豪華です。(1260年ごろ)

↑ナポリ国立考古学博物館にあるポンペイで発見されたアレクサンダー大王のモザイクが有名な「イッソスの戦い(紀元前333年)」(紀元前100年ごろ)。その大きさは縦横3.42×5.92mに及び、わずか3ミリのテッセラを 100万個以上使い、黒、白、赤、黄、茶の5色を巧みに組み合わせてつくられています。(画像はそのモザイクの一部です)
14世紀から16世紀にかけてルネサンスの時代に入り、モザイクは衰退していきます。しかし、その後19世紀から20世紀にかけアール・ヌーヴォーの時代にモザイクは花を咲かせます。
イタリアでモザイクは沢山の場所で見ることができ、ヴェネツィアやラヴェンナも有名ですが、やはりフィレンツェのモザイクも紹介したいです。
ということで今回はここまで。次回こそ洗礼堂のモザイクです♪
沢山の方にこのブログを開放すべく毎日頑張っています。
ブログランキングに参加しています。
お手数ですがポチっとクリック応援、ありがとうございます!!!
↓ここをクリック♪










にほんブログ村<
みなさんこんにちは
以前、ドゥオモ広場の一律共通券についてお話しました。バックナンバーはこちら↓
http://aleviola.exblog.jp/19351686/でサン・ジョヴァンニ洗礼堂について話しました。バックナンバーはこちら↓
http://aleviola.exblog.jp/19363185/ 今日もサン・ジョヴァンニ洗礼堂のつづき。 イタリア語の父とも言える「神曲」を書いたダンテ・アリギエーリも13世紀に洗礼式をここで行い、「我が美しき聖ジョヴァンニ」と言わしめたこの建物。
今回はやっと内部に入ります♪
8角形の内部は直径が25.6m、以前は入場料を取らなかったので通常の市内観光のツアーではドゥオモと併せて入場していたそうですが、この洗礼堂の狭い空間にツアー客と一緒にジプシーも入ってきてしまいスリが横行していたそうです。
この洗礼堂の醍醐味はモザイクですが、その前にこの方を紹介します。

「対立教皇ヨハネス23世」の墓。
対立教皇とは正規に存在する教皇に対して「納得いかねーなぁぁ」という意見から別の教皇を立てることによりそれを正当化しようとしたってこと。
やっぱみんなトップになりたいのかしら?
ちなみにそんなことを考えながら私のない知識でもかなりの日本史を見ていたら、日本の天皇史もなかなか面白いのね。数え方によってトータル123名とも128名とも言われるらしいけど一応今上天皇は125代ですって。年少だと7ヶ月、最高で62歳で即位だったんだって。皇室の歴史もすごいなぁ。まぁ、今回は関係ないけど。
話は戻るけどその対立教皇、要するに同時期に複数の教皇が存在するこの歴史は3世紀までさかのぼるらしい。
その中でも混乱していたのは14世紀から15世紀にかけて。教会大分裂(大シスマ
Scisma d'Occidente)といわれる最高で3人の教皇が同時に存在していた時期があった。201代教皇グレゴリウス11世の時代にアヴィニヨンからローマに教皇庁が移り、翌年そのグレちゃんが亡くなってしまったのでエラいことになってしまった。ローマとアヴィニヨン、そしてピサからそれぞれ教皇を立てるめちゃくちゃな時代があったんです。 そのピサ代表の教皇がヨハネス23世でした。

↑ヨハネス23世:1370頃-1419年(在位1410-1415)
ナポリ出身、本名バルダッサーレ・コッサ。前任のピサから選出された対立教皇アレクサンデル5世を彼が暗殺したとも言われる。それも彼はかつて海賊とも軍人とも言われる所以から。メディチ家のジョヴァンニ・ディ・ビッチ(老コジモの父ちゃん)の経済支援により教皇まで上り詰めることに大成功する。
メディチ家といえば当時最大の経済金融組織、これは教皇庁との取引によるものでした。
その後コンスタンツ公会議で3人の教皇は廃止、1417年にマルティネス5世という教皇が即位して混乱は終結する。この時代にローマ、ヴェネツィア、ナポリに銀行支店を置いたメディチ家の老コジモは世界で一番裕福と呼ばれた。

↑ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1429)
ヨハネス23世が教皇の座を降りても彼の支援は終わらなかった。ヨハネス23世を自由にさせるため1418年に大金を払っている。

↑墓は当代の大人気彫刻家、ミケロッツォとドナテッロにその墓を依頼してできたのがこれ。
墓碑にはブーイングを浴びながらも「かつての教皇」と刻み込ませた。
政治的なもの私欲の為にヨハネス23世を利用したのだとしたらそこまで(自由にさせるため大金を払ったり、死後のお墓まで作ったり)しないだろうな。
これは友情だったのか?残念ながら私の資料では見つけることはできませんでしたが、みんなの非難を浴びようともお墓の「かつての教皇」という文字を消させなかったのがとても引っかかるんです。それも悪い噂の多いこの対立教皇をそこまで支援したジョヴァンニ・ディ・ビッチがとても気になる。
かなり高い位置にあるこの墓碑は私たちからはどうしても見上げる形になってしまいます。墓はとても神々しく、「かつての教皇」というにふさわしい威厳を持ち合わせていました。
しばらくポケーっと見入ってしまったくらい。
はい、また脱線の連続でした(泣)。次回はモザイクについてお話したいと思います。
沢山の方にこのブログを開放すべく毎日頑張っています。
ブログランキングに参加しています。
お手数ですがポチっとクリック応援、ありがとうございます!!!
↓ここをクリック♪










にほんブログ村<
みなさんこんにちは
昨日のリフォーム状況です。

天井が全て完成しました。
家の統一感が出てきたなぁって感じです。

ホンネを言うともっと濃い色でもよかったんだけどな。

2階の壁は棚が備え付けてありますが、これは天井まで続く棚に変更されます。
やはり収納は重要ですね。

2階から1階を見ると空間がそこに存在しますが、これはこれからのお仕事で、ガラスの開閉式にします。

この家にある大黒柱はとてもいい色です。以前住んでいた方のセンスが感じられます。
下の階のオーナーの話によるとここは1800年代のアパートだと。
となるとイタリア統一前後の建物か?

カッパとよばれる換気扇の穴もすっきりさせました。

これからやるのは2階のガラスとキッチンです♪
沢山の方にこのブログを開放すべく毎日頑張っています。
ブログランキングに参加しています。
お手数ですがポチっとクリック応援、ありがとうございます!!!
↓ここをクリック♪










にほんブログ村<